『四季・夏』森博嗣(講談社)/小説
S&Mシリーズ、Vシリーズ、そしてGシリーズを貫く四季シリーズ。
第二作を読んで考えたことです。
以下、ネタバレ。
というか、わけわかめ。
何故新藤医師だったのか?
それは、彼が父の他に最も身近な―いや、最初に会った男性であり、そして、それ以外の人物を選ぶ理由がなかったからだろう。
一般に、女の子の方が“結婚”という概念への関心を早くから示すのは何故だろう?母を見ているからだろうか?
しかし…。
実の母は四季が自分の子であると信じて欲しがっていた。
そして、伯母は自分の子に殺されたがっていた。
死んだ双子の兄として基志雄の素体は生まれた。そして、四季が基志雄の存在を知った時、恐らくそれは伯母を知った時、基志雄は伯母と父の子としてのシミュレートのための存在となった。
何故自分が生んだ子供に殺されたいと考えるのか?
何故自分が生んだ子であることに執着するのか?
母とは何か?
叔父に近づいたのは彼が彼女にとって最初の男性だったからだ。
結婚というシステムを理解した時、異性という存在に気付いた時、最初の素朴な憧れが生ずる。彼女にとってはそれは有性生殖を理解するのと同時だったろうと推測する(それが生物学を後回しにした遠因だ…とまでいうのは邪推…いや、無粋か)。父親にべったりする子も多いが、彼女にとって父は半保護の対象だった。彼女自身、ただの少女っぽい部分を解放するのが楽しかったのかもしれない。
それはいつの時代だって“はしか”で済まされるものが、彼女は天才過ぎた。故に、彼女には他の選択肢はありえなかった。
そして彼女に魅入られた新藤にも選択肢はなかった。
兄への劣等感があったろう。養子ということ。それら全ての要素を計算に入れた上での美少女の誘惑。
性交、妊娠、出産。
自分の子孫を残すことは、自分が死んでも良い存在となりさがること。
消滅。
それは、子供の生存率が高まるほど、真理に近くなる。次を残すことだけが目的。
だから自分の子供に殺される。自己とは、それまでのバックアップ。遺伝子と言うデジタルな配列のみが意味を持つ世界観。
子供らしい単純な世界。
それに対する瀬在丸紅子の意味の大きさ!
彼女は自分に率直になった。つまり論理に背を向けた。それが四季には敗北に映ったろうか?それが衰えた原因だと?
今思うのは、本当に四季の子・ミチルは天才ではなかったのだろうか?ということだ。
写し取るという人間の本質から言うと、ミチルはたった一人、四季からしか写し取れない。だから、もしかするとミチルが四季を殺せない理由は必ずしも「天才で無いから」ではないのかもしれない。鍵を掛けた子供。鍵を開けるロボット。
血族の殺人。
一つで十分と言う思考。効率志向。
解らない。とにかく、四季は経験したいことを経験し、小休止に入った。インプットをとりあえず終えた。自由になることへの布石?コピーだ。彼女はコピーを作ろうとした?より優秀な方が、あらたなステージへと進む。ほぼ、同じ条件で。
…解らない。
それにしても、森川須磨の結婚相手は誰なんだろう?佐々木姓なんて登場していないのに?
それから、余談。
四季はやはりすべて記憶していると言った。
そうだろう。意味が無いから憶えられないのだから、意味を見出す能力に長けていれば憶えられる。生まれてしばらくの視力は弱い。嗅覚が強い意味を持つ。その時点から記憶できるかもしれない。
しかし、それはあくまでも理想の状態で、だ。それは理想気体を仮定するのと同じ。四季は理想的な天才だ。だからシミュレートしやすい。天才過ぎて不確定な要素がとても少ない。
あらゆる登場人物は、要素を限定されている。犀川は人格を抑制している。だから描ける。その精度が高いだけ。
天才過ぎて、逆にあっけなかった気がした。底が知れる。
その意味では、新藤医師の方が人間らしくて好もしい。
多分、そういう予測。
(070330追記)
つまり、恋愛というものの捉え方が紅子と四季で大きく異なっている。紅子は恋愛そのものを楽しみ、恋愛感情に対して無抵抗すぎる。四季は恋愛を種の保存としてしか見ていない。否、種の保存としてしか見なさない者が勝っている。同じ表現ならば、紅子は種の保存として見なす者を選ばなかった。それが選択。
しかし…父と母の遺伝子を継いだのは四季だが、新藤医師と四季の遺伝子を継いだのはミチルしかいない…なのに何故殺した?う~ん…むしろその頭脳に価値を見出した?わからん…(←すでに次の巻に思考が移っている)