クオリアっぽさ/daily

はてぶで見っけてきた。

斎藤環 「脳はなぜ心を記述できないか」 講演レポート「Freezing Point」ueyamakzk氏

長いけど全部読んで見た。

すげえ面白い。

でも、半分くらいわかんねぇ(註:半分くらいというのは感覚的な意味で、書かれてあるものの半分ではない)

この辺の心理学とか何やらかんやらは読んでないから専門用語がわかんねぇ。昔から何となく敬遠してたからなぁ。

しかし、今出来る限りの理解はした(いつだって出来る限りのことしかできない。次に見た時はまた見方が変わっているだろうから)。

それでこの記事を読んで、何となく茂木氏の言う「クオリア」や「アハ体験」について違和感を覚えることを思い出した。

クオリアというのは、ある概念に対して感じる固有の印象だと理解しています。それが脳科学的にどうかというのはつまり、それをどの部分で感じているか部位を特定したいということでしょう?

僕はクオリアは感覚だけにとどまらない単なる記憶を含む総合的なもので、個々の経験によって異なるだろうし、それを感じる部位も万人に共通するはずがないのではないでしょうか?と思うのです(しかし僕たちは言語による交流によって何とかその感覚を共有しようとしている)。つまり、ほぼ脳全体で感じているのではないか、と。「映画を見てわくわくする感じ」などもそれは、映画を見てどの部分に「わくわく」を感じるかというのは、固有じゃないと思うのです。視覚に強い感性を持つ人と、聴覚に強い感性を持つ人では、同じ因子に対して持っている概念は異なるだろうし、だからそれは固有ではなくて個有だと思うのです。環境が異なるから記憶が異なる、だから何かへのクオリアも異なる。

「思い当たる」という行為をよく吟味した時に気付くのは、つまりニューロンネットワークの経路選択が、視覚情報が入った瞬間に視覚記憶のすべてが反応して、そこから関係ありそうな経路を辿っていって印象がある程度以上の符合を示した時(この符合の閾値も個々で異なる)、「わかった!」となるわけで、それが遠回りの経路で気付いたものが近道の経路が加わることはそんなに特殊なことなのかな?それは、同じものを角度を変えて見る訓練の中でも同じことが出来るのではないかな?確かに「アハ!」と驚くことは印象に強く残って長期記憶になる可能性が高まるかもしれないけど…何となく、日常的じゃない。「アハ!」を繰り返すことで「アハ!」を得やすくなるとテレビで言っているアレは、茂木式の「アハ!」への学習を含んでしまっていないだろうか?それは違うんじゃないか?(「脳トレ」にも同じことを感じる。「脳トレ」が向上すると感じる効果は『「脳トレ」への慣れ』と『いつもと異なる作業をやることによる活性化』が混同されている気がする。つまり、それじゃなくても別の楽しい作業で代用できるのでは?(ゲームの手軽さは別として)ということ)「アハ体験」はたどり着けるようになることではなくて、たどり着いたことが重要なんじゃなかろうか?そんで、「アハ体験」に至る前に直感的に短絡路を感じ取る「もどかしい感じ」の方が科学をやる分には重要なような気がする。要は、ニューロンネットワークが広がるほど、それは感じやすいのだろう。連想力とは、多分ネットワークの緻密さか、或いは符合の判断を多系列で行うことだろうと。

…駄目だ。まだ不十分にしか言語化できない。だから長い。

まだ専門用語を理解してないからだな。よくわかんなくなった。専門用語を理解して使いこなせば短くなるだろう(そして、専門用語を知らない人にはわからなくなる。ファインマンさんは偉いなぁ)。

アフォーダンスクオリアの違いを説明せよとか言われたら困る。

でも、この何となくこの二つに感じる近しさがクオリアの所産であって、アフォーダンスではありえないとかそういう説明では駄目?

しかし、個人的に必要としている知識ではある。しかし、こういうのを知ろうと思ったら図書館とか行って分厚い本を借りてこないと(お高いので買うという選択肢は無い)。めんど。いつになるものやら(図書館に入り浸るほどヒマになるか、買う余裕を持った人物になるか)。

でも、多分、意識って身体感覚と本能という身体的なものと記憶の再生と認識という脳的なもの相互反応が繰り返し起こることじゃないのん?そんなイメージを勝手に持ってる。それがいつの時代の認識なのかも知らないけれど。

斎藤先生というのは環先生も学先生も興味深いです。しかし、どっちも精神科医ながら、起点の大きな違いと分野に微妙な(奇妙な)距離があってすごい不思議な感じ。