誰のための涙/散文

僕は子供の頃、痛みや苦しみで自分が可哀相な時に泣く事が多かった。

自分の為に、泣いていた。

弱かった。

自分のために流す涙は弱い涙だ。

無力感や自責の念から来る涙もまた弱い。

後悔は失敗の後につきまとう。

それは成功の糧にもなりうるし、正しい。

責任を感じるという事は、責任を果たして報いるべき相手が居たということ。

けれど、その人に報いるために本当に必要なのは次の機会で成功することであって、泣き顔を見せることではない。

自責の念で流す涙もまた、自分のために流す涙に過ぎない。

強い涙は、自分のために流す涙ではない。

相手の苦しみを感じた時にも、人は涙を流すことはできる。

口だけではなくて、感情を行動で示す。

「あなたの心を、全部ではなくても私も感じているよ」

解ってもらっていると思うことで、いくらか心が救われることがある。

その誰かよりも強くないと流すことはできないから、だから、他人のために流す涙は強い涙だ。

そしてそれは美しい涙でもある。

美しい涙はもう一つある。

成し遂げた喜び、歓喜に流す涙だ。

達成感と誇らしさが篭った涙、それは美しい。

僕は弱かったから、醜い涙ばかり流してきた。

涙腺の弱い泣き虫だ。

だけど、どうせ泣くのならもっと多くの良い涙を流したい。

だから、もっと強くありたい。