話し合いと感謝/思索

人を嘲ったり、貶したり、侮辱したりすると優越感に浸る事ができて、少し楽しいような気分になる。

けれど、相手の悲しい顔を見て気が咎めない人間はいない。

多分、悲しい顔を見て気が咎めるというのは遺伝子レベルで人に組み込まれているのだろう。小さな子供が泣いている人に無垢な目をしてなでなでしようと手を伸ばしているのを見た事がある。

他人を傷付けると気が咎める。だから、ストレスはそんなに解消されない。

それよりも、達成感とか感謝の気持ちとか、そういうものの方が余程健全に、すっかりとストレスを癒してくれる。

「ありがとう」「ごちそうさま」「ごくろうさま」「たのしかったね」

そういう言葉が自然に出てくるような、そういうことをするほうがよほどストレスの解消になる。

今の人々は、大人も子供も、そういう気持ちの良いストレスの解消を忘れてしまったようだ。人と人の関わり合いがぐっと減ってしまったから。

昔は、人と関わって、喧嘩する事も多かったけど、仲直りする事も多かった。そして、それ以上に助け合って感謝しあう事が多かった。

昔の方が機械の力が弱かったから他人の力に頼る事が多かった。昔の方が情報を手に入れるのが難しかったから他人に質問する事が多かった。

今は人に頼らなくてもいいから、感謝する事が少ない。

そして、大人は子供に感謝される事の楽しさを教える事ができていない。

感謝される楽しさは、一人では味わえない。

弱い者を助けるというのは、とても良い事だと実例を示して教えていくこと。

子供はとても弱い。

そして才能がまだまだ荒削りで、できる事とできない事の差が激しい。

絵は上手いけど楽器がダメな子がいる。

運動は得意だけど算数がダメな子がいる。

苦手な事ばかりで何をやってもダメな子がいる。

感じ方の違いで、奇妙な色使いをする子がいたり、本の虫がいたり、空想家がいたり、乱暴者がいたりする。

その個性の方向を、良いものは伸ばし、悪いものは正すのが大切で、それが本当の個性教育だろう。

そして、悪い事はダメだと言えるように育てる事。相手の意見を認め、自分の意見を提示し、そして考えてどちらが正しいのかを判断する事。悪い個性、悪い意見とは何なのかを考えて話し合える事が必要だ。

そして、義務教育とは誰もができるようになっていて欲しい事を教えるのだから、才能が劣っていてもいつかはできるようになる事を子供達に教えなければならない。

できるようになるまでは、できる人ができない人を助けてあげる事を教えなくてはいけない。

そして、助けてもらったら素直にありがとうと言う事を教えないといけない。

そうやって助け合うことの心地良さの中では、辛く哀しいいじめは生まれにくいと思うのだ。

ダメなら何故ダメなのか?

ちゃんと話し合いができる場所に一方的な暴力は生まれにくいと思うのだ。

多分、そういう社会の方が居心地が良いのだ。