人を殺していけない理由/社会

時折メディアで、「何故人を殺してはいけないのか」を議論しているところを見かけたり耳にしたりする。

大抵、整理が不十分なために、大した結論も得ないまま終わる事が多いが、そんなに難しい事だろうか、と呆れる事が多いように思う。

そこで、少し考えてみた。

考えた結果、ヒトが何故社会を形成しているのか、そこから論理を組み立てる方が良い様に思われるので、少し長くなるがそこから説き起こしてみよう。

ヒトは生物である。

生物は遺伝子の機能ゆえに、自身の複製を作り、増殖する。

生存期間が長いほど生殖の時間を多く持つことが出来るため、生物はより長く生存するための戦略を獲得していく。

そうしてより巧みに自身の複製を残すものがより殖えて行き、自然淘汰を受けた結果として生物は進化していく。

社会とは、そういう生存戦略の一つであり、社会とはより確実な生存の為の仕組みである。

生物は社会を形成する中で、情報を共有するためのコミュニケーションを獲得した。鳥も蛙も蛇も猿も鳴き声でコミュニケーションを取る。

また、感情を共有しようとする能力、シンパシーも獲得した。

これらは共に、社会の運営を円滑にするためのものであるが、しかし、これらは完全には本能によって保証されない機能であり、その厳密な形式は生後に他者から学び取らなくてはならない。例えば、いるかの鳴き声は群れによって若干の方言があることが知られている。鳴き声やシンパシーのために脳のある領域が発達したからと言って、実際に使用しなければ実地のコミュニケーションは不可能である。

このシンパシーやコミュニケーションは重要なポイントの一つである。

さて、殺人を犯してはならない説明にこのシンパシーを使って、いくつか理由を作ることができる。

一つは、「○○君は○○されたらいやでしょう?だったら、他の人にそういうことをしてはいけないよ」方式。

これは完全に○○君にシンパシーの能力がしっかり備わっている事を前提とした理由付けである。

シンパシーとは、二面の機能があり、一つは相手が感じているであろう事を推測して、自分も感じる機能。もう一つは、自分が感じている事を相手も感じていると信じる機能である。

これを上手く刺激して、「殺す=傷付ける=痛い=イヤ」という連結を行い、殺人に嫌悪感を抱かせる事ができるだろう。

ただし、これはシンパシーがしっかり備わっている人間にしか通用しない。

シンパシーは、その人間が「他者と自分が同じものを感じている」と実感する機会の積み重ねによって成長していく能力である。もしこのような機会が少なければシンパシーは成長しておらず、この論法は適用不能である事に注意したい。

もう一つは、「人間は人間を殺すように出来ていないから、殺してはならない」というものである。

動物は哺乳類に近付くほど同族意識が強く、同種間で殺しあう事を本能的に嫌う。勿論、極限状態になれば共食いも発生するが、基本的には同種殺しは禁忌であり、イレギュラーなケースに当たるのである。

怪我をしている仲間が居れば傷を舐めてやったり、何も出来ないにしろ周りから離れ無かったり、そういうシンパシーが動物にはある。

この本能に反して殺人を犯すとどうなるか。

まず、殺人の結果自体がかなり不快なはずだ。

血や死に顔、腐臭は、それらが死という生物の対極にあるものをイメージさせるが故に、生物は本能的にこれらを不快に思う。人間は特に清潔好きであるために、ことにこの傾向が強い。

殺人を犯した直後が、先ず不快。

また、殺人とはそれ自体がイレギュラーで特殊な体験のため、とりわけ脳が発達していて記憶が達者な人類はこれを忘れえぬばかりか、時折フラッシュバックしてしまう。夢に見たり、白昼夢を見たり。それらは確実に人間の心を蝕んでいく。

故に、殺人は不利益な面があると説明できる。

しかし、人類の2%は初めから殺人に適応できる者があるという事を忘れてはいけない。つまり上記は一般論であり、適用できない人間も稀にであるが存在する。

このため、既に殺人を犯し、それに適応できている自分を知っている者にはこの論理は通用しないだろう。

次に、社会という概念を捉えて、そこから殺人を否定してみよう。

社会とは、何か。

社会を構成する要素は、構成員、ルール、領域である。

ある構成員が、生存の為に、その社会特有のルールに従って、仲間意識を持って相互に助け合う事を前提とし、社会が規定するある領域内に、暮らしている状態にあると、その構成員とルールと領域を総合して社会と呼ぶ。

社会には、その構成員の区切り方によっていくつもの区別を持つ。

最も大きな社会単位は「人類社会」であるが、今現在それは本能のレベルでしか存在しておらず(つまり同種でのシンパシーの機能)、厳然と公的には機能していない。

機能している最大の社会単位は「国家」である。国家は法を持ち、国土を持ち、国民を持つ。

一方、一般に最小の社会単位は「家族」である。

(「一般に」と断るのは、不確定ではあるが、一部の人間は自身の内に社会を構成する可能性があるが故である。古い用語に言う多重人格者―今の用語に言う解離性同一性障害は、肉体という領域にルールに従いつつ共存する構成員から成るケースとして見ても良いかもしれぬと考えているからである。このケースについても後述する事となろう)

現在、地球上に社会の領有権の認識が及ばぬ土地は存在しない。

つまり、地球上にあって、社会の影響を受けぬ地は無い。

この点も一つ重要である。

社会とは生存の仕組みであり、そのルールはその構成員を庇護する。逆に言えば、社会はその生存を害する者を排除しようとし、社会の構成員を害した者は社会より制裁を受ける。

制裁とはつまり、一時的、あるいは継続的な社会からの隔離である。

死刑は恒久的な隔離であり、禁錮は時間を限った継続的隔離であり、罰金は一時的に社会的自由を奪い、その間に資産を接収する超短期的隔離であるといえる。

つまり、あらゆる罰は社会からの隔離にあり、これは生存のための社会の存在を脅かす者を、社会から隔離して生存における社会の重要性を認識させるためのものなのである。

社会はその存在を脅かすものを見逃してはならず、必ず排除しようとする。

多くの個人の根源的目的は生きる事にある。

生きて、お金を稼ぐ。

生きて、名声を得る。

生きて、何かを造る。

生きて、恋人を愛す。

生きる事が前提となって、生きる目的が達せられるのである。

犯罪を犯せば、社会から隔離され、これらの目的を達する事が難しくなる。だから犯罪を犯してはならない。ましてや殺人を侵せばまず間違いなく長期の禁固刑を受けることなり、

これが一つの理由、「社会の役割と義務を思い、損得を考えると、殺人は犯すに値しない」である。

物事をわかった大人であれば、これで十分に説得可能であろう。

彼が逃げると言えば、警察力を挙げて逃げ切るのは困難であるし、何より逃亡生活が自由な暮らしと言いがたい事を思い出させれば良い。

社会が世界中に根を張りつくした現代では、かつてのように山賊になるだとか、そういう社会の庇護を受けない存在になる事が非常に困難である。殺人犯が捕まる可能性は高まっているのだ。

(ただし、かつて人々は互いに互いを監視する事で犯罪を抑止していたものだが、近年の過剰なプライベート意識によって監視が行き届いていないという面では、市民レベルの自衛力は低下の一途を辿っていると言っても過言ではないだろう。反面、警察の操作技術の向上は著しく、この市民レベルの防犯力の低下を警察力の向上が補っている。これが現代の防犯・犯罪解決の姿ではなかろうか)

では、殺人そのものが目的である場合。

つまり、社会から制裁される事を理解した上で、禁忌を犯す事を生きる目的とした人間の説得にはどう当たるべきだろうか?

こういう殺人を犯さざるを得ない状況とは、その殺人を志向する個人が既に社会から隔離された状況にある場合に生じるであろう。

「もう生きていける希望が無い。社会は生存を目的とするのに、私はそれを許して貰えない」。そういう確信の下に、報復として、捨て鉢な心持から殺人衝動に身を任せているのである。

よって、彼らには「生きて行けるのだ」という道を見せるしか無い。保護して、慈しみ、コミュニケーションやシンパシーを教え、導いて上げるしか無い。

もしそれが通用しなかったら、お手上げとしか言いようが無い。

せいぜい、実際に殺人を犯してしまったら、掴まえて、彼らの失われた心の自由の状態に相応しい、肉体の自由が失われた状態にしてあげるしか無いだろう。

しかし、方法が無いわけではないだろうから、心理治療や神経治療の類の研究を進め、彼らを救う手立てを探る事は社会の義務であろう。社会は生存を保証するものであるのだから。

(蛇足。ところで、自傷行為とはつまりは、他者に向かわなかった破壊衝動が内側に向かった結果である。しかし、数度の失敗を経て、尚生きているという現状について、「外の世界ではなく、この自傷によって連れて来られる世界なら生きていける」という認識が生まれる可能性はある。それが自傷行為が止まらない一要因であるのではなかろうか。つまり、外界での躓きが、保護された世界への回帰欲求を刺激し自傷に繋がる、という状態ではなかろうか?)

とりあえずここまで書くだけで結構疲れたので、この項終わり。