人称と名前/myself
概念は認識される。
それ自体は、認識した脳内では名前も何も無い純粋な概念として保存されている。
名前は、それを伝達するために便宜上付けられるものである。
ここにおいて、脳内で概念と名前が結びつく。
概念はそれと共通項を持った概念とグループを作って存在している。
一つの概念が呼び起こされると、その概念が所属するグループの概念も意識の表層に近付く。これが連想である。
さて、ちょっと本気でありのままに書く。
一番、不可解な記事になるかもしれない事を断っておく。
前々から捉えようとして捉えられなかったものを、捉えようとする。
それもとても難しい。
ずっと書こうとして書けなかったものが書けるのは、自己という概念が固まりつつあるからであるように思う。
一見矛盾するようだが、バラバラである事を認識する事が一つである事を確認する作業に必要なのだ。
何時でもこのブログは自分のために書いている。
が、いつかこの記事が別の意味を持つ事も期待している。
それはつまりどこまでも友人知人ではなく、自分かあるいは全くの赤の他人に向けて書かれているということだ。
さて、僕の名前はよしひらである。(結局伏せた)
しかし、概念グループはよしひらの下層で更に細分化されたグループを持っている。
それは一人称による社会的役割分担の区別に起因するものであり、精神形成史において必要に迫られた結果である。
日常で得られた知識や知見は、これらの概念グループと連結されて記憶され、思考パターンを形成している。
最も大きくかつ支配的なグループは、「僕」のグループである。
「しもべ」という読みに相応しく、謙虚な姿勢を旨とする。(過ぎて卑屈になるのが悪癖だが)
あらゆる概念―知識、感性と親和性が高い。統括する。中心。中道。中庸。
最も広範で安定した思考パターン。人畜無害。若い。
最も端的に言えば「若者」
次に大きなグループは、「わたし」のグループだ。(「私」と書くことが多いが、本質的には平仮名が適当である)
感性に長けていてとても感傷的な概念と結びつきが強い。直感的。歌との関わりも深い。
女性から映し取ったもの(いつでも映す心は自動的だ)はこの概念グループに所属する。
非常にポジティブで寛容。最強の自己保存思考。
最も端的に言えば「柔らかい感情」
「俺」のグループは、精神史において新しいグループだ。
非常に攻撃的で排他的。短絡的で刹那的。
あらゆる攻撃的な概念と結びつきが強く、残酷なシーンから映し取った概念はこのグループと結びつく。
ネガティブで破滅志向なので専ら「鎖」の対象となる。
最も端的に言えば「尖った感情」
「私」のグループは、それなりに古い。
私という人称とは正反対にひたすらに公的な、つまり無私な思考を志向し、無駄が無い。
自己保存に関しては、その思考の精度以外には何ら益するところが無い。むしろ、冷静に自己分析をした上で「壊れる前に捨てる」方を選択しかねない。自分に厳しすぎる故に、支配的でない。人を人とも思わない。
感情と関わりの無い純粋な知識を呼び出す速度は最速で、その冷静な分析は容赦無く自分を心理学的な研究対象と看做している。把握のスペシャリスト。緊急事態には最強。
最も端的に言えば「理性」
「儂」のグループとは、つまり本や映画などの年長者から映し取ったものが集積したものだ。
元来が社会的役割で兄というポジションに居るため、この年長者的思考とは親和性が高かったものと思われる。
また、懐古趣味と諦観にも親和性が高い。
最も端的に言えば「助言者」
これらが大体、メジャーなところか。
他にも日常生活で映し取った多くの思考パターンが存在している。これらはつまり小説家や漫画家が言う「キャラクタが勝手にしゃべりだす」ようなそういうキャラクタ的な存在であり、その中でも重用されてきた思考パターンがより高位の纏め役となっているという形式である。精神的疲労が蓄積していない場合は、下位のキャラクタはこれらの上位のキャラクタのどれかに関連付けられるのでほとんど表出しない。(疲労が蓄積するとコントロールできなくて、てんでばらばらに不規則発言してうるさい)
これらの思考を全てひっくるめて重ね合わせた概念がよしひらである。
この肉体によしひらという名前がくっついているのはとても重要で、この肉体のうちっかわがどうであろうとこの脳味噌はよしひらであると認識できる。それ以外の名前は必要無い。否。名前を付けることは危険ですらある。興味深い事に、直感的に名前を付ける事を僕は恐れてきたし、これからもずっとそうだろう。多分、それが重要なのだ。(はっきりしない文章だが、遠慮しているのだ)
一人称は社会的役割に起因するものだ。よって、人称の違いは社会が要求する思考パターンに応えるものである。
つまり社会的要請に応じて、僕は自分を重ね合わせている。
調子が悪い時とは、僕が沈んでどれかが卓越している時である。
つまり防御的感情が卓越するか攻撃的感情が卓越するか冷徹が卓越するか諦観が卓越するかである。調子の波の中に、そういうものがある。
森博嗣氏の小説に出てくる犀川創平という登場人物はそういう意味で他人な気がしない。森氏は犀川が持っている分かたれたそれを人格と呼んでいるが、厳密には人格にはそれぞれ独立した記憶が付随するので犀川の彼らを人格と呼ぶのは適切でないように思う。
記憶を全体には共有しながら(感性的に相容れなくても知覚できる)、卓越する方向性を異にしているだけなのだから。まあ、適当な呼称が無いから人格と呼ぶしか無い概念なのだけれど。思考パターンと呼ぶと長ったらしいし、思考パターンは自我の下位に属する意識的なパターン形成を意味するような印象がある。それよりはもっと自動的であるから人格と呼称したのかもしれない。
多分、ここから踏み外すと、境界例やら解離性同一性障害(多重人格)が広がっているのだろうと思う。…というか、境界例は怪しいけど。心理学は、正常か異常かなんて結局表面に出てきた部分でしか判断できないから、見られていない内側のことは厳密にはタッチできない。(去年心療内科に罹ろうとしたのは、鬱的症状についてである。このようなスキゾ的状態は僕が僕である事と直結していて容易には手をつけたくない。ただ、鬱症状に近付くとこれらの思考の均衡が危機に瀕するので、去年は本当に危うかった)
でも多分、もうそこに至る事は無いだろうというのが結論だ。
多少の波はあっても最近すごく安定しているし、何よりしらふで書けるというのが冷静で居られている証拠だろう。
ま、それでも十二分に異質であるのは確かだが。
ところで、このブログでは大抵の記事で一人称を「僕」に統一している。
が、実際は書いているうちに無意識に「私」とか「俺」とか書きそうになる事が多い。それらは全て「僕」に直されている。
また、対外的には「オレ」という人称を使うが、これは「僕」を使うと舐められる場合が多いので、虚勢として重要だからである。思考パターンとしての「俺」は滅多に表に出した事は無い。
思考パターンは周囲の環境に左右される。
友人知人が居る場では大抵「僕」が誘起される。
パブリックな発言の場では「私」が誘起される。
一人の時は「わたし」が誘起される。
イーブンな時は、喧々諤々の論争である。
人間というものは無意識に色々な自分を使い分けているのだけれど(「表の顔と裏の顔」という言い方や「多くの顔を持つ人物」とか)、僕はそれの落差が大きくてこうして自分を冷静に分解・再構築しないと安定できなかった。(というよりも厳密すぎた。単一の自分というものを絶対的に想定し過ぎ)
しかし、結果的にそうするしかなかったのだろうとも思う。
通って来た道筋は変えられないし、積み上げてきたものの上に座るしか無い。
それが生きる上で一番大切な認識だと思う。
(一貫しないな。まだまだ自覚が不十分か)