器と鎖/myself

いつからか、単一でない自分を認識するようになった。

それはささやかな発見から始まったように思う。

自分の気紛れをどう解釈するか。

字の癖、用語の癖、一人称の癖。

それは次第に重要な課題となった。

多重人格の本を読んだ。

違う。こうではない。

自分の記憶が確かならば、自分の記憶は一つであり、断片や欠落は無い。

誰もがそうである以上に、多面的な自己。

それは僕の中で争うものども。

意見の対立。

つまりは、フキダシの中の天使と悪魔のような。

母と父、祖父祖母などの血族。

友人知人。

小説、マンガ、ドラマなど物語中の登場人物。

あらゆる場所から齧り摂って来た人物像の断片が再編集されて頭の中に息づく。

それは空想?

空想とは、自分でコントロールできている幻想を言う。

精神的に弱った時、コントロールの鎖は外れ、暴走した。

乱反射する思考。音声。喚く声、諭す声、嘆く声、笑い声。

全てが意図しないままに連想され、膨張し、そして消費される。

昨年の秋口が一番危険だったか。

心療内科に通おうかとも考えた。

しかし、糸口を見つけた。

結局、自分を認めきれないから自分以上の何かを持ってきて代わりに真ん中に据えようとしていたのだ。

その候補のどれとも適合しないから、ただ無秩序に陥っていくだけだった。

だから、自分を真ん中に据えれば良かったのだ。

だから、今、僕という器の真ん中には僕が居る。

そして、彼らはそこから鎖で繋がっている。

それが最も安定するイメージなのだ。

(…と書いちゃう僕はやっぱり尋常では無い気がするが、どうだろう?)

森博嗣の小説中の登場人物にはよくある設定じゃん?)

(つまり少数派ながらも存在するから心配するなってことね)

(なんかここ上遠野浩平っぽくない?)

(まいっか)