自動空想装置/凹
空想って、僕にとっては自分でするものではないです。
頭ではなくて心から始まる感じ。
つまり、外界からの刺戟に対する純粋な反応から生まれるものであって、終局的に何らかの成果物(小説や詩や歌など)になる前に知性による修正を施される事はあっても、それは元来根源的な衝動なのです。
雲を見れば心は飛翔し、海を見れば心は泳ぐ。
風に吹かれ、太陽に焦がれ、花の香に誘われる。
僅かな水溜りに残った水に魂を寄せて、陽射しに灼かれて天に昇り、雲となり風に吹かれつ下界を見下ろし、雨粒となって地上に落ち、魚とともに川を下り、取水されて食事に使われ、洗濯に使われ、下水に使われ、そしてやがて海に至り、深層へ。そして800年かけて循環する。
その善なるものは大抵そういうものです。
邪悪なるものもあります。
身の内の不満や嫌悪が噴き出す時、それは限りなく狂おしい。
刃を手に手に狂乱する。街行く人を斬る。
手を足を腹を胸を首を頭を。
斬る。叩く。抉る。削ぐ。貫く。
踏み躙り、蹴飛ばす。
血を手に取り壁になすりつける。
赤く黒く、噎せ返るような、穢れた幻想。
それらは勝手に浮かんで来る。
だから僕はそれを鎖で捕らえる。
何故なら、空想の刃には、空想の体には、空想の鎖で戒めるのが相応しいからだ。
そして、それを善なるものと判断すれば鎖付きのまま空に放って自由に遊ばせる。
それが邪なるものと判断すれば十重に二十重に鎖を巻いて、心の泉に放り込む。
そして、厳重に管理する。
この空想は諸刃の刃なのだと思う。
この鎖を扱えなくなったら、僕は死なねばならないだろう。