審判というアスリート/iThink

FIFA World Cupでも、日本のプロ野球でも、そういえばWBCでも、誤審疑惑が騒がれたし、騒がれている。

機械化を進めようという声もある。

しかし、僕は人間の審判に価値を見出す。

それは、審判もまた、一人のアスリートであると思うからである。

ただし、ここでの審判とは、対人競技における審判を指す。

競争は機械による正確な計測(ただし、陸上のスタートの判断は踵の加重では測れないと思う)が適切だと思うし、採点競技は機械化は不可能であると考えるので、この記事では除外する。

さて、対人競技において、審判は以下のように幾つかの能力を要求される。

1)体力

審判は、競技者の至近、プレーが良く見える位置でジャッジを下さなければならない。

そのためには、競技者と同じくらい早く長く走らなければならない。

これには当然体力が必要である。

野球の審判も、試合中は3時間以上休憩無しの立ちっぱなしである。トイレ休憩すらないので、試合前の食事は勿論水分も極力摂らないと、どこかで見かけた。

2)集中力

競技者もそうだが、審判もインプレー中は勿論プレーが止まっている間も集中を切らす事は許されない。

競技中に集中力を切らさない精神力が必要なのだ。

3)視力

視力が悪くて見えないのでは洒落にならない。

また、プレーの中心以外の場所で行われるルール外の行為にも目を光らせていなければならない。それだけの視野の広さも必要である。

4)戦術眼・試合の流れを読む目

一つのジャッジが試合の流れを変える事がある。

荒れそうな試合は、その予兆を早期に発見し、早めの注意喚起で引き締める事が必要である。

また、プレーの流れを読み取り、アドバンテージを見るか否かを瞬間的に判断できるかどうかも、この戦術眼に拠るところが大きいだろう。

5)決断力

一度下したジャッジは決して覆す事はできない。

一つのジャッジが選手の人生を変える事がある。

それだけの重みを理解した上で、なお毅然と判定を下す。

要求される決断力は、おさおさ競技者に要求されるものと遜色は無いだろう。

6)団結力、信頼関係

複数の審判によって、試合を運営する協議の場合、審判団の構成員の間での信頼関係もまた重要である。

それはチーム競技に要求されるものとなんら変わりが無い。

7)向上心

常によりよいジャッジを目指すもののみが、一流の審判として最高の舞台でジャッジを下す事ができる。

あくなき向上心だけが彼らをピッチに、フィールドに支え続けるのである。

以上、これらの審判に必要な資質は、アスリートに要求されるところとほとんど変わりなく、審判をアスリートとして取り扱うべき土壌は存在すると言えるだろう。

プロフェッショナルとは、自らの能力を収入の源とする人間の事である。

成果が悪ければ収入は減り、ともすれば失職の憂き目すらある。

それがプロの世界である。

一流の審判員には、一流の年棒が支払われてしかるべきだろう。

少なくとも、一律はおかしい。技術に応じた給料が支払われてしかるべきと思う。

そして、技術給によって審判の質の向上につなげるべきだろう。

一方で、審判個々の向上心に依らない、協会側の独自の審判の質を向上する機関も必要だろう。つまり、技術を審査する権限と、審判講習のカリキュラム充実などを掌る機関である。

審判の立場は総じて低い。

フットボールの世界では、ドイツ・ブンデスリーガでは薄給のあまり賭博に関与した審判もいたし、イタリアのフットボールセリエAでは審判の選定に圧力が掛かっていたという(クラブが強権すぎる悪しきお国柄のせいであるが)し。

審判の技術向上は、審判の地位向上がまずは必要なのではなかろうか?