その愛すべき曖昧さの翳に/myself

心地良い日だ。

陽射しは明朗で、風は爽快。

昨日の夜は、群蛙の喧騒に雨を覚悟したのに、こんなに晴れやかとは望外の喜びであろう。

お気に入りの音楽を聴き、贔屓の野球チームを応援し、好きな文章をかちかちと打ち込んでいると、深く深く幸せに生きているという実感が湧き上がる。

一人で得られる幸せというものはこういうものだ。

わずかな音と、一方的な思慕と、独善的な情報発信。

十分な幸福に感じられるが、まだまだ小さな幸福なのだ。

複数の人と分かち合えるもっと大きな幸福がこの世には在って、その存在を僕は意識している。

しかし、幸福はそれ自体が不幸の因子で、失った時はその全ての裏返しが不幸に加わる恐ろしさがある。

だから僕はそれを曖昧に押し込んで、隠してしまう。

それが安全と思うからだ。

思えば色々なものを僕はそんな曖昧さに隠してしまって、表面化を遅らせてきた。

危機を見出す目は確かで、それを誤魔化す口も達者。

多くの矛盾を抱えながらここに居て、そして小さな幸福をむさぼる。

もしかしたらそれら全てを裏返して、出し切ってしまう事でまた新しい世界が見えるかもしれないと思いつつ、その日を自らが作り出す日を待つ。

僕の歩みは遅い。

それは曖昧さで丸め込む事しか出来ないような、相反する強烈な価値観を具有していたために、前に進む推力を十分に得られなかったからだ。

それを認識して、整理しつつある今、少しずつ加速している現状、しかし、時間の方がまだ早い。

曖昧さの翳で進行する危機と対峙する日々。

しかし、急げない、急がない。

歌を聴き、他人を応援し、自分勝手な言葉を紡ぐ。

これが限界速度なのである。