演技/思索

誰にせよ人は我慢する時自分を偽らざるを得ない。

我慢とは外部との関係において要求される反応である。

それによって、自分と外部を納得させねばならない。

内的には、自分の欲望を欺き、納得させる。

外的には、他者の視線を欺き、納得したかのように見せる。

我慢強い人とはこの演技が上手い人の事だ。

自分を納得させて不満を残さず、

他者を納得させて不安を感じさせない。

しかし、結局はそれは当人にとって、本心を精神の地下牢に押し込んで、仮の心を外に送り出す作業だ。

色々な場面で、色々な人に対して、我慢に我慢を重ねていくと、結果として心の外縁部に多くの仮の心が、心の地下牢に多くの死せる欲望が、蓄積する事となる。

欲望は代償で償却せねば、いずれ腐臭を放つ。

鬱屈した感情や、屈折した欲望の温床となる。

故に、我慢した後は、それを形を変えて昇華させねばならない。

一方、積み重ねた演技は、やがて社交的な振る舞いに変わる。

或いは、我慢をしないための、我を通すための駆け引きの道具へと姿を変える。

それを成長と呼ぶかどうかは、判断に苦しむところだ。

それは、欲望を具現したいという意味では子供染みているが、その為に知性を活用するという意味では大人びている。

折り合いを付けられるという意味で大人と判断すべきだろうか。