景観の良し悪し/まちづくり

「美しい景観を創る会」の「悪い景観100景」が朝日新聞(の恐らく夕刊)に取り上げられたようです。

「悪い景観100景」選定(朝日新聞

http://www.asahi.com/life/update/0528/004.html

「悪い景観100景」そのものについてはこちら

http://www.utsukushii-keikan.net/10_worst100/worst.html

大分以前に、そういう動きがあるという話はウチの先生ルートで聴いてはいましたが、本当に公開しているんですね。

地元は困惑しているそうです。

それはそうでしょうね。

一般的な話をすれば、こういう風に槍玉に挙げて、殊更に掲げる事は、議論を始めるのには丁度いいと思います。

ただし、戦略的な話をすれば、功成り名遂げた方がやると、ちょっと勢いがつきすぎて却ってあらぬ反撥を受けはしないか心配です。

どうしても押し付けられたと感じてしまうものですから、こういうのは若手がやらないと社会も取り合ってくれないと思います。

ま、過ぎた話ですが。

今の日本で景観の話をする上で、どうしてもネックになっている部分は、“豊かさ”の優先順位が揺らいでいる最中だという点です。

つまり、バブルに懲りて、高度経済成長期のように物質的豊かさを追うでもなく、かといって、失われた十年があってやっぱり物質的豊かさの像は諦めきれず、一方では精神文化の充実を求め、一方で物質的豊かさも欲しい。その二極分化が、収入の二極分化や、教育の二極分化などの問題と複雑に絡み合って、特に若者において、非常に厄介な葛藤状態を作り出しているように見えます。

そんな中で、景観を優先させるか、効率を優先させるかと言う議論に決着を見るのは難しい。

しかも、日本人の場合は、欧米のように歴史と芸術と信仰が当たり前に生活に密着している状態に無いので、経済以外の価値基準においてバックグラウンドが不均一なんです。

だから、どうしても理屈がすれ違ってしまう。

斯く言う僕も、個人的な話をすれば、生産的な嗜好と破滅的な嗜好とによって、景観への評価基準が正反対になるので、どうしても一個人としての意見が一定に保てない部分があります。

そういう、多文化的混沌にある日本においては、却って今のような混沌とした景観が、形而上学的に相応しいと言えるのかも知れない。

…と思わなくも無いです。

しかし、もしも出来得れば、良い景観を見て、心豊かに生きたいものですから、やはり景観は良いには越した事は無いのです。

それは誰だって同じ。

けれどそれが経済原理に何とはなしに屈服させられているのは、市民の意識に「景観はお高いもの」という意識があるからで(“景観”を“環境”に置き換えても可)、そのあたりの意識を地道に変えていくしか無いのだと思います。

…とは、書いていますが、現実的な話をすれば、朝日新聞の夕刊で取り上げられるほど景観は、市民生活に身近な問題になって来ていると言う事。

日本では、色々な分野で相反する価値観が激しく闘っています。

新しい社会通念と成れるか?

もうひと押し、ふた押し、さん押し…?

僕らの世代の景観分野の学生の力も重要になるでしょうね。

…と、思いました。