マイ・ペース

何か最近のどたばたを経て気が付いたのは、結局自分は精神的には短距離ランナーなのではないかと言う事だ。

その日一日の計画を立てて、それに向かって行く事は出来るけど、二日、三日に渡ると「明日にしよう」なんて怠惰の蟲が騒ぎ出す。

暢気に「明日にしよう」なんて言ってるけど、それは考え無しの一言に過ぎない。

僕はズバリ、“一日”レベルで、就業時間を延長したり、圧縮したりという対応は出来るが、翌日回しとか複数日に渡ると途端に処理不可能になる。

論理優勢の日と感性優勢の日ってのが歴然とあって、感性優勢の時なんかは確実に緻密な思考は無理で、むしろ大局的な思考くらいしかできない。

明後日はどちらが優勢なのかなんてのは、様々な変数が関わってカオス状態にあり、その予測は天気予報より難しい。だから、計画なんて立てようが無いんよ。

その日の始まり、どんな夢を見たか、起きた時刻(遅いと凹む)、朝ご飯の炊き加減、寝癖の具合、外の天気、気温、雲行き、空気の匂い…ありとあらゆる要素の影響を受けながら、その日の感性のレベルが変化する。

カチッと理知的に来る日もあれば、ふわっと感情的に出る日もある。

どちらにせよ、一日レベルでの対応力なら人並みにあるので、その日のテンションに合わせたその日の目標を定められればそれでうまくいくのではなかろうか?

そうして、毎日“一日”を積み重ねて、最終段階までに十二分なストックを形成し、追い込みで取捨選択を図るのが僕のスタイルではなかろうか?

裏返せば、十二分のストックのうち、二分が捨てられると言う意味だけど、そういう大雑把な進め方のほうが、僕には性に合っているな。その一度は捨てた二分から、新しい知見を構築するのを僕は好むし。

結局、この辺は好奇心の方向性とも絡んで来ているような気がします。

多くの人々は、専門領域という小領域から入って、中領域へと徐々に知見を拡大し、それを踏まえて近接領域(中領域)へと入っていく。そして、中領域を積み重ねて大領域へと迫っていく。そういう傾向が強い。

僕の場合は、大領域を見回して、適当に中領域をつまみ食いする。そして、複数の中領域に共通点を見出して関連付け、その関連性という観点から小領域を分析して知見を得る感覚だ。

哲学とか専門的にはこういう思考法を何と言うのかな?浅学ですから知りませんが、とりあえず前者を登山型思考、後者を落下傘型思考、とでも呼びましょうか。

前者は上ってから見回すのに対し、後者は見回してから降りて行くイメージである。

さて、人は日常的にこの二つの思考法を、どちらか一方だけを使っているというわけではなくて両方、使用している。ただ、どちらの思考法が多いかというと、普通は前者だろう。

なぜなら、後者の思考法を優先させると、己の専門領域というものを確立しにくいからである。

自分の足場をしっかりと確保しないと、人は不安になるものだ。

登山型思考であれば、集団における自己の役割を自分の中に確立する事(自己同一性の構築)が容易だし、周囲にその役割を認知してもらうのもスムーズだ。

落下傘型思考は、大局的視点を必要としない日常レベルだと、物知りとして重宝されても便利屋の域(器用貧乏)を出ない可能性が高い。そのため、集団における自己の役割が流動的になりやすいし、集団の中の自己の定位が困難になるだろう。

そう考えると、両方の思考を巧く使い分けるのが肝心…という結論になるのだが…。

「三つ子の魂百まで」僕はなかなかこの年になると修正は難しいかも。ま、努力はします。

さて、ここまで思索を巡らして気が付いたのは、落下傘型思考ってなんだか“セカイ系”の定義に相似しているという事。

落下傘型思考は、その壮大さ故に非常に広くて深い知識を必要とします。コスト高なんですね。(だから僕もヘボ頭振り絞って苦労してる…)

そのコスト高を埋めるのを面倒臭がると、小領域、中領域をすっとばして、個と大領域とが短絡してしまいかねない思考法と言えます。

落下傘型思考の欠点は、とにかく飛び降りてしまうので力量が足りなければ墜落する事、つまり正しい知識を得られない事。

正しい努力を軽視しがちな現代において、安易な落下傘降下が増えているのかもしれません。

以上、仮眠前の息抜きでした。