法治国家って/社会

ふっと、法治国家には二段階あるような気がした。

盲目的に「法律は守らなければならないもの」という認識でいる国家と、

論理的に「法律は何故守らなければならないか」という意識を持っている国家、

この二種類である。

仮に、前者を“低次の法治国家”、後者を“高次の法治国家”とでも呼ぼうか。

勿論、多くの国民がいて、法律に詳しかったり、歴史に詳しかったり、道徳に詳しかったりで、その認識のレベルは個々人に差があるだろう。

けれど、どれだけの国民が法律を意識して守っているかについて言えば、日本は前者であるように思う。

日常的に、「だって法律で決まっているし…」という主体性の無いコメントが聞かれるし、今更ながらにテレビの討論番組で「何故人を殺してはいけないのか」とかを議論しているし、交通法規や飲酒・喫煙に関しては「だって皆守って無いじゃん」、「ちょっとくらい良いだろう」とのたまう人が多数いる。

精密な法体系全てを市民が理解する必要は無い、という考え方もあるようですが、僕はここでは現実論ではなく理想論を語りたいと思います。

それに、低次の法治国家は結局のところ、治安の悪化などに陥るリスクが高くなると思うのです。

また、政治や立法への無関心は、社会全体の無気力に繋がると推測します。

故に、高次の法治国家を目指すべきだと考えます。

って、何の気なしに書いたけど、専門家が世の中にはいっぱいいるでしょうからかなりおこがましかったですね。失礼。

失礼続きに「続きを読む」もあります。

失礼失礼。

僕は、法律の根源は憲法にあり、憲法の根源は自由権にあると考えています。

つまり、国民全体の自由権に関する認識が結実したものが憲法であると考えています。

信教・思想・良心・表現・集会・結社・居住・移転の自由など、自由を求め始めればきりがありません。それをどこまで認めるか、その認識の総意が憲法に反映されているべきです。

自由を謳歌するために生存権が存在し、日本国という国の下での自由を守るために、軍隊を持つべきか否かを規定すべきなのです。

その根源的規定から派生して、種々の法律―商法、刑法、民法などが存在するのです。

このため、法律を学ぶ事は自由を学ぶ事と等価だと思います。

過剰な一個人の自由の発露が、別の個人の自由を侵害する可能性が存在する事を認識する事。

その解決のためには、当事者間において、自由に関する認識の擦り合わせを行い、ルールを形成する事。

それらの個別的なルールの最大公約数が、条例であり、法律であり、憲法である事。

この最大公約数を定めるための場が議会であり、執行する場が裁判所であるという事。

経済活動の自由、その商取引のルール、株とは、投資とは、投機とは。その中での自己責任は?

現代社会を理解するために、自由と法はその根源から理解する必要があります。

この学習の場は当然、学校教育に委ねるのが適当でしょう。

小学校では、道徳の時間などで暴力やいじめなど、単純な権利の侵害の形式及び話し合いによる解決の方法を学び、

中学校では、その基礎的な道徳がどのようにして法律として成立するのかについて理解を深め、

高校で、現状の制度に至る歴史を学び、より親しみの薄い法律の学習に進む…というのが段階として適切ではないかと思います。

とにかく、小中学校レベルではお互いの個性の違いを認める事とお互いが考えている事が違う事を学び、それらの違いが話し合いでルールを共有する事で解決できる事、そのルールの集合が法律であるという理解をしっかり定着させる事が重要だと思います。

…ちょっとした思い付きのつもりが深入りしすぎました。

割れ窓理論に近いですが、こういう細かなルールに対する認識を醸成していく事が、治安の安定に繋がるのではと思います。

教育に関していつか「『国語』と『社会』という教科の位置付けについて」とかそういうタイトルで、また別に記事を書きたいと思います。

以上です。