土地と人/社会

今夜のNHKスペシャルを見て、郷土愛について考えた。

長く住むと、土地に愛着が出てくる(土地とひと口に言っているが、そこに住む人も当然考慮に入れる)。

それが当たり前。

道路が雪に閉ざされても、あのお年召した方々が生まれ育った村を離れることができないのは、長く住み、人に土地に景色に愛着が生まれ、郷土愛が心にしっかりと根付いてしまっているからなのだろう。

郷土愛は心を貫いて、体を貫いて、足から大地に根を張っている。その土地を離れるにはその根を引きちぎる痛みを堪えなければならないだろう。

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郷土愛というのは、その土地の良き事物を糧にして伸びる根のようなものだ。土地の魅力を知れば知るほど、根は深く、強く伸びる。

良き事物とは、歴史とか産品や風景である。

これらは文化との結びつきも強く、これらの良き事物が文化的土壌となって郷土愛、地元愛の根源となる場合もある。

都市部では―ここからは都市部と田舎部では事情が異なるので分けて話そう―自ずと土地特有の物産は例が少ない。故に郷土愛は歴史や風景に拠るところが大きいだろう。東京の国立や神戸の北野などは風景を介して郷土愛、地元愛が高まる好例であるし、京都なども歴史から来るそれの好例であろう。

都市には利便という即物的魅力がある。しかし、それはあくまでも物理的な尺度であるために都市化の度合いという尺度で優劣を決めることができ、突き詰めると果てが無い。我々は実は、利便と郷土愛を秤にかけて住むところを定めているのではなかろうか。土地勘があるか、馴染みがあるか、故郷に似ているか、という認識は実は郷土愛の未熟なものであると考えれば、これに利便性を加えて転居先を選んでいる自分達の行動は、この説を保証するものだろう。ここにおいて、利便性とは郷土愛に対して異なる質を持つ量であり、純粋に精神的な価値に因る郷土愛へは組み込み不能と考える。つまりは、便利だというのは純粋には地元愛に繋がらないということ。

極端な反例は、歴史も風景も産品も無い新興住宅地である。これについては感覚的に郷土愛が育ちにくいということは想像可能だろう。

では居住選択においてどちらが優先されるかといえば、それは即物的であるが故に利便の方であるだろう。田舎部でそれは顕著である。

田舎部では、郷土愛の未熟な若年層ほど利便性に魅力を感じて郷土を出たがる。

道路を筆頭に、交通網はすっかり整備されていて、恋しくなったらいつでも帰れるという安心感もある。(だから、人を吸い出すという意味で道路整備は長期的には地方の活性化には繋がらないと僕は考えます。経済活動は人がいてこそなされるのですから)

一方で、老年層ほど郷土への無償の愛でもって土地を離れることができない。郷土と一心同体となっているのである。そして郷土が郷土であり続けるために、採算の取れない水田に水を張り、雪を掻き下ろし、野放図に増える竹を切り、残された力を振り絞って里を守っているのだ。

その姿、過疎とは哀しいものです。

さて、ここまで論を進めて、結局何が言いたいのか?

それは、「郷土愛というのは、土地の姿を守るためのとても強い動機となる」のだが、「それは精神的なものであるからこそ伝えるのは難しい」、故に、郷土愛を知らぬ者たちが新興住宅地で増え続けている今、土地の姿はどのように守られるのか?

マスメディアを通じて擬似的に田舎へのノスタルジアを感じて、Iターン就農する人も増えている。今はまだ良い。しかし、それも所詮はヴァーチャルなものに過ぎないために、そのノスタルジアは次第に実情を離れ往くであろう。そんな時、誰が土地を守るのだろうか?

土地への愛着を育てるためにも、良い風景、良い産品に日常的に触れ、歴史を語り伝えるシステムが必要とされているのではなかろうか。

さて、自称・愛国者達がしきりに口にする“愛国心”の正体は、郷土愛が国レベルに拡張した姿であるのではなかろうか?いかがだろう。

だとしたら、郷土愛も育てられずに愛国心を育てようというのは、分際を弁えぬ世迷い言と呼べるのではなかろうか。

現に僕は愛国心を想う時、家族を想い、糸島を想い、福岡を想い、九州を想い、そして日本を想う。いや、そして更に、アジアを想い、地球を想う。

要は自分が属するコミュニティを愛せるかどうかなのだ。国とは殆どの見知らぬ人によって構成される巨大なコミュニティ(+土地)。自分と繋がっている身近な人々、その身近な人々と繋がっている見知らぬ人々、その広がりを想えない者に、国など愛せるはずが無い。