横溝正史『悪魔の手毬唄』(角川文庫)

「金田一さんは田舎の農村のことをわりによくご存知ですが、どこの村へいってもその土地でずば抜けて勢力をもってるものがあるんです。ところがその勢力家にはいつも対抗馬があるというわけで・・・(以下略)」

/磯川警部のセリフから/

横溝正史の十八番なのか、旧家の対立第三弾?らしき作品(僕はまだ二作目なのでなんとも・・・)。

しかしこれは解説にもある通り、童謡殺人の作品であって、この一点をもって批判するのはややナンセンスではないでしょうか。

二極対立のほうが物語の余分な枝葉を削れて、簡潔に仕上がるという効用もあるかと思います。

さて、中身です。

磯川警部の紹介で、金田一耕介は鬼首村を骨休めのために訪れる。

(と、言ってもこの村で起こった未解決の事件も併せて紹介され、はたしてこの滞在が骨休めになるのかは物語の当初から不安視されるのだが。)

さて、訪れてみれば鬼首村は「当世流行のグラマーガール・大空ゆかり」が故郷に錦を飾るということで、総村こぞって気もそぞろといった様子。

(時代を感じる「グラマーガール」の用語がちょっと微苦笑を誘いますね。)

さて、そんな興奮状態の村に激しく雨が降る夜。

事件は雨音にまぎれて静かにその幕を上げるのです。

村に伝わる古い手毬唄になぞらえて、若い娘が次々に殺される。

今回の連続殺人と二十三年前の事件との関係は・・・。

金田一耕介は犯人を見破り、事件の更なる被害を防げるのか?

さて、推理小説には動機とトリックという犯人に繋がる二つの道があるように思いますが、横溝正史氏は“動機が近道”の推理小説が得意のようです。

逆に、“トリックが近道”が好きなのは森博嗣氏でしょうか。

動機とトリックは推理小説の両輪ですが、作者の好みによってどちらを基にして事件を組み立てるかによって近道が違ってくるのでしょうね。

そんなことを思いました。