一番古い記憶/昔の話

一番古い記憶は、「母から弟が出来るの。りょうへいくん(※)はお兄ちゃんになるのよ」、と言われた時だと思う。その時、何かがそっと引き剥がされて自分が違うものになったような感覚があったのを憶えている。これが2歳の時。(※HNの「よしひら」は「良平」の訓読みであることは、ブログでも何度か触れている。)

それは、しばらく忘れられていたのだけど、妹が生れた時に弟が同じことを言われているのを聞いて、思い出したのだった。「弟は弟であって、自分と同じ『お兄ちゃん』ではない」と反発を覚えたからである。しかし、弟はいまひとつわかっていないように見えた。祖父の家で妹を挟んで兄弟妹三人で写っている写真が残っていて、この時のことはよく憶えている。これは、4歳の時のこと。

その間の3歳くらいの記憶もいくらか残っている。

続きを読む

「なぜ子どもが家事を手伝わないのか」についてぼんやりと

なんかツイートしようと思って書き始めたけど長くなりそうだったので試しにメモ帳に書き溜めてみたらやっぱり長くなりすぎたので久しぶりにはてダに来てみた。
「なぜ子どもが家事を手伝わないのか」について考えた。じゃあ手伝いをせずに子どもが何をしているかというと大体漫画ゲーム、友達とメール・LINE等だったりする。
何故そっちが優先されるかというと、毎日やらなくてはならない代わり映えしない家事と違ってそれらが常に新しくて新しいことが面白いからだろう。加えて、一度手伝うとより強く毎日手伝いを要求されることが容易に想像でき、より楽しいことに使う時間が削られる悪い想像がある。
年をとると経験が蓄積された分、新しいことに出会う機会が減ってくるので、同じことを繰り返すことに慣れて抵抗を感じにくくなる傾向があると思う。その感覚を子どもに求めるのは筋違いじゃないかな、と思う。
では、逆に子どもの新しいものを求める感性に合わせて、それが「退屈なルーティン」で無くなればいいんではないか。つまり毎回新しい工夫とそれに伴う発見があるようにすれば抵抗が減るんじゃないだろうか?
プロスポーツ選手の一部の超一流の選手は、毎日の練習の中で少しずつ工夫をする楽しさを口にする。繰り返しの中に新しい発見を交えることで、努力する楽しさを見つけているのだと思う。
諦めにも似た慣れの中で単調なことを繰り返すのが努力ではなくて、新しいことを発見する努力ということ。スポーツの場合、身体の些細な動きの違いを発見する身体知の才能の違いが努力の才能になってるかもしれない。
勉強でも、多くの子どもたちが無思考な繰り返しを勉強だと思い込まされていて、工夫を楽しんでいないのではないかと思う。正しく工夫する楽しさを知ることで勉強は変わる。
というのは、それが間違った工夫にならないようにする指導が大事だと思う。例えば、メシマズならマズく出来たものの隣に美味しく出来たものを並べて、どう違うのかから確認しないといい方向に進まないんじゃないかな?
でも、多くの場合、そういう「丁寧な指導」はなされない。特に、ルーティンとして確実に手早く片付けなければならない家事では手戻りは許されることが少ない。間違えて怒られて、面白くないから続かない。
初めてやらせるなら手戻りと指導に時間を取られることを覚悟するべきだし、それが無いのに一方的に継続的実施を望むのは無理があると思う。
つまり、親切に指導して気持ちを乗せてやるというのがひとつ。もう一つは徹底して本人がやるまで手を付けないというのもあるけど、今はなんのかんのでインスタントがたくさんあるし、現実的じゃないよな。とか思った。
でも、そういうトライアンドエラーの無さってのは、引き締め傾向にある日本ではどこでも見られるよなー、って思った。って、なんでこんな結論になったんだよ、俺。
ゲームとかは結果がすぐ出るし、目標が明確に設定されていて成功したかどうかの判断がはっきりしているから好まれるんだと思う。スタートはある程度限定されたルールを設定してやることは大事だ。ただし制限時間はなしで。

昔話/ヒトトナリ

酒を飲んだ翌日というのはどうしようもなく沈むことが多い。

窓の外を見て、雨が降っているのではないかと思うくらいに暗い。

この二週間くらいずっと頭の中で昔のことを思い出しているから、今日はなおさら暗かった。

中学1年生の時、僕はいじめに参加していた。

朝、登校すると机が隠されていたり、教科書がゴミ箱に入っていたりするタイプだ。

続きを読む

体罰の話

はてな記法忘れた(挨拶)

体罰の話。

日本人は「察する⇔察してもらう」という受動的なコミュニケーションが好きだと思います。
欧米人にも「察する」はあると思いますが、公の場では「主張する」ことを礼儀としているような気がします。

「察する」が標準化した世界というのは、つまり言葉で表現することが少なくても済みますので、言葉で表現するのが苦手でも結果さえ出れば高い職位が与えられることになるのだと思います。
指導的な職務が付随するのが高い職位であると現在は考えられていますので、言葉で表現するのが苦手な人でも指導的な職位へと至り、指導を求められます。
しかし、その下には未熟な者が付けられることになりますが、その指導者と同じくらい優秀な人材ならば察して付いて行くことができるでしょう。しかし、その指導者は、他の人よりも優れて察することができたから昇進することができたのであって、他の人は彼ほど察することができないでしょう。
よって、指導者は察することができない人には説明をしなければなりません。

中には説明をできる人もいるでしょう。しかし、そのような昇進をした人すべてが説明をできるわけではなく、言葉での表現不足を補うために何らかの方法で強制をしなければならなくなるのだと思います。

察するというのは、直感すると言い換えてもいいのかもしれません。

直感を構成するのは経験だと思います。優秀な人というのは、少ない体験の中からでも濃密な意味・経験を獲得する才能があり、その直感を形成するまでに至るのだと思います。
その才能に欠く人は、少ない体験ではなく大量の体験で補う方法がひとつあります。しかし、時間が掛かることですし、まだ意味を見出すことができていないことに時間を掛けるのは苦しいものですので、長続きしません。
そこで、長続きさせるためにより強い苦しさである体罰をぶつけて、比較的軽い苦しさである「理解なき努力」の選択を強要する、というのが体罰の図式と思います。

もうひとつ、才能を欠く人が取る方法として、少ない経験のままで、才能ある人が直感で実行している方法を理論的に模倣する、というものがあります。これはつまり、努力の意味を理論的に理解する「理解ある努力」であす。
たとえば、身体能力に優れた相手に勝つために倍の練習を積むとして、その意味を理解すれば苦しみは減るでしょう。
その意味を理解せずに行えば苦しいことの方が多いでしょう。

ところで、その意味を理解しようと理解しまいと、単純な努力のみでも素質に優れた者を上回ることは可能なケースは往々にしてあります。そうなった時に、「意味はわからなかったけど、体罰によって強制された努力の結果として良い成績を達成することができた」という状況は出現しえます。ここに体罰の肯定ははびこりやすいのだと思います。

しかし、スポーツというのは単純な身体能力のみで勝敗が決着する時代は終わり、分析と戦術理解のウェイトが大きくなり続けていると思います。
トレーニング理論も進歩していますし、チーム競技であればあるほど体力面で差をつけて勝利することは難しくなっているということです。
これまでの「指導力」は、「強制力」に大きなウェイトを占められていたのですが、それが本当に指導することが重要になってきているのだと思います。


ところで、何故死に至ったかについてですが、これは組織が閉鎖的だからだと思います。指導に納得がいかずに別の指導を受けに行くことが死ぬことよりも気軽にできるのならば、その選択肢を選べたでしょうけれど……。
日本の多くの組織が、この強制的な指導法をとるために閉鎖的な組織を形成し、「組織から逃げた者はこの強制的な指導に従わない者」=「この指導法では成長しない者」ということで評価を落とすという暗黙知を相互に形成してしまっていると思います。
それが「辞めないで我慢するのが常識」という強制力を持ち、人々を縛っているのだと思います。そして、それを制度が肯定していると思います。転校の手続きは面倒ですし、受け入れ体制は整っていません。社会人の労働関係法もそうだと思います。
法というのは常識を肯定するために設置され、議論は新たな常識を形成するために必要なのです。

この閉鎖性を脱するための議論を積み重ねることが必要だと思いますし、そのために時間をしっかりと確保することが重要です。
ところで議論とは、相互の意見を出し尽くした後で、どちらもが引いて容認できるポイントを共有することが決着だと思います。この文章もただの意見だと思います。

流動的な組織を維持するには、優れた経営理論が必要だと思います。
そして、優れた経営理論が存在しない状況ならば、固定的な組織を運用する方が社会全体では安定していたのであろうと思います。しかし時代は進んでいますし、国同士の競争の中でその優れた道を採らないことは致命的なのではないかと思います。


以上をまとめますと、組織が閉鎖的だから体罰が有効となり、体罰によって日本の中では成功例を収められるので日本の中では無くならないが、それは世界標準ではないのでこれから苦しい袋小路に追い詰められるんではないでしょうか?ということだと思います。


さて、AKB48さんの話になるのですが、外野から見ていて彼女たちは、コアなファンを狙ったサービスでカルト的な人気で盛り上がり、そこからキャッチーな部分で一般層を取り込んだのだという経緯の果てに、その組織の中で図抜けたアピールポイントがあるのだからそれを活かして独立しようという人というか独立させようという事務所の思惑がちらほら出てきて、そこに恋愛禁止というのを逆手に取ることもあったりなかったりするのだろうと思います。
実際のところはわかりません。
大事なのは、これが犯罪であるのか、ビジネスであるのか、です。
髪を切るというのは強要すれば傷害罪だったと思いますので。

多分、髪を切られた彼女が訴えれば、犯罪になると思います。しかし、訴えなければ警察は踏み込まないと思います。ビジネスかもしれないからです。
これは被害が「髪を切る」というものなので、個人によって受け取り方……精神的ダメージが大きく異るものであるため判断が簡単ではないということだと思います。
同様に、言葉の暴力についても同じ事が言えます。個々人によって受け取り方が異なるために、どの程度であればそれが犯罪なのかということを一概に決定することが難しいと思います。
そもそも、警察の人的資源も有限ですし、一から十まで警察が関与することは困難でしょう。
そういう実務的な限界の中に、いじめや体罰の問題もあると思います。

そうやって取り締まられないのであれば、我慢するということはやはり当人にとっての利得になりえるわけです。
ですので、再度繰り返すことになるのですが、これを避けるには流動性とその流動性へのセーフティネットが必要なのだろうと思います。
それは、困っている人に面談して相談にのってあげることであったり、解決法を教えてあげることであったり、距離をおいて理解する時間をつくったり、そういうたぐいのものであると思います。
本当に仕事が楽しく、そこで自尊感情が満たされていれば、恋愛にうつつを抜かすことは無いわけです、でも、恋愛というのは相互に自尊感情を満たす行為であるので簡単にあらゆるものに優先してしまいます。
それは仕方ないことだと思うんですよね。
でも、ある程度自分の才能と照らし合わせて相応の仕事に満足しなければいけない、ということも世の中にはあって、それが絶対的に恋愛に勝てないってことはかなり当たり前のことなんだと思います。
人間って自尊感情を満たすために存在しているのだろうと思うからです。
才能と照らし合わせて相応の仕事に満足するというのは、自身の中に想定する満たしたい自尊感情の器を小さくするという意味です。身の程を知るということも、満足のうち。それを納得させるのは、他の人が教え諭してくれる言葉であったりもするのです。
ほめるしかるというのは、そういう自尊感情の器の補正だと思うんですけどね。
体罰自尊感情の器を一旦壊すものだと思います。壊れて戻るものもあれば戻らないものもある。
だったら、僕はほめるしかるで補正するほうが、人が生き残る可能性は高いと思います。

その意味で、この件は教育の敗北であるとは思いますが、人間に常勝はありえないことですので、ありうべき事態への措置ということで生徒への出席停止はそれ自体が教育行為であるという意味で仕組みとして存在して良いと思うのです。ただし、出席停止した際に、それに相応しい大人の指導を受けられること、というのが条件です。例えば、校長室で授業を受けるとか、OB教員の指導を受けるとかね。停学とかが教育になってないのは、単なるお休みになってしまっている点だと思います。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/national/update/0202/TKY201302020238.html

峯岸さんも、その周囲の人達も、もっといろんな先輩のアドバイスとか受けられたら良かったんじゃないのかな、と思います。
なんか、ファンもろとも尖鋭化の一途をたどっているように見えます。

おひさー/ヒトトナリ

なんか久しぶりやのー。

ここのところ悩みまくりです。

んで、「ここ1年について/anual」「中の人などいない!/ヒトトナリ」についてなんだけど、まぁ、だいたい嘘なので。

……ということにしたいんだな、俺の立場としては。

やっぱりこういう「精神的に脆い自分という設定」ってのは楽だからな―。

楽な方向に逃げたいってのは人間の性として仕方ないところはあるけど、そればっかりじゃやってけねーですし。

うん。

と、思ってみたところで実際に朝起きてテンション上がらないとどうしようもないんですけどね。

「目覚めよ!俺!」とか思っても、「いやだよう、ボクチン逃げたいよう」ってのには中々勝てないわけですね。

私とかそれ甘やかすしね。お前はかーちゃんか。

てわけで、俺が自律しないといけないよーな立場に思えるかもしれませんが、

基本的に俺はイラッと来たらあんまり考えないタチなので、やはり社交性はありません。

露骨に態度に出るしね。

「めんどくせー、死ね」とか平気で思うからね。

「この素っ首ぶった切りたいわ。ダルマやダルマ」とかね。

つーか皆殺しよホントw

おかーさんそんなこと許しませんよ。あと、おかーさんはエロも許しませんよ。

そういうことらしいんで、はい、まぁ、俺は眠ることにします。

眠気に弱いのも俺の特権ですわ。ははは。

ではでは。おやすーん(デレラジは明日聞くとしよう)

みょーん。またぞろおかしなこと書いてるです……。

はやく人間になりたーい。

……最近、Twitterとかでも不安定になりがちでご迷惑をおかけしてないか心配しまくりです。

うへぇええええ申し訳ねぇえええええ!

あうあう。すみませんすみませんすみません。

↑最近こいつはこいつでまた謝ってばっかりモードに入ってて機能してない。

そうやって謝るとそれはそれで心配かけますから、やめておきましょうね。

そういう自覚はあるんですけど、どうにも気持ちが大きくなっている時に自重ができなくて困ります……。

はぁ……。普通ってなんなんでしょうか……?

中の人などいない!/ヒトトナリ

僕の頭の中に住んでいるキャラクターがいます。

それらは人格ではなくて、自動的なルーティンです。

名前はありません。

 

たとえば、以下の画像です。

f:id:yoshi1207:20170122110902p:plain

 

彼女は、僕の調子が悪い時に右後方から現れて、僕の心の中の右腕を掴みあげて出刃包丁で切り落として犀の目に切り刻み、その肉片を口から火を噴いてこんがり焼いて食べます。

それは、時計台のからくり人形のようなもので、機械的にそれを行うだけです。

僕は切り落とされた右腕を幻視し、血の滴る切断面から新しい腕が生えてくるのを見守ります。

彼女は、肉を食べ終わったら消えます。

どちらかというと、彼女は次女です。

 

話を続けます。

次の画像です。

f:id:yoshi1207:20170122110927p:plain

右側の彼女が目立ちますけど、彼女は言うなれば三女です。このブログの看板娘でもあります。

一番左側が僕です。というより、一番左側が僕である時間が一番長いです。

その隣で、次女相当の彼女が肉を食べています。

滴る血が延びて、左腕が無い男につながっていますが、彼はおおよそ次男に近い何かです。

その次男に近い何かが掴んでいるのは、「お仕事処理マッシーン」となった僕です。

僕は、疲れてくると何も考えずに仕事を処理するマシーンになります。

 

でも、仮に次男と呼ぶことにする俺はお仕事マッシーンな自分を大嫌いなので、頭をぐちゃぐちゃに殴り潰して殺します。空想の中で。

何度も何度も頭を叩き潰します。頬骨が陥没して、前歯が折れて、額が割れて、脳が潰れて、髄液が飛び出します。その時、左手の血で出来た鎖を、長男相応であるところの僕と長女相応であるところの私が引っ張って阻止しようとします。だいたい、「お仕事処理するマッシーン」になるくらい疲れている時は阻止できません。本当に疲れている時は阻止しようという気力すらありません。

だいたい右手が折れるくらい叩き潰すまで妄想したら、すっきりするので次男相当のヤツは消えます。

つまり、次男次女みたいな連中というのは私の中の攻撃性というヤツで、それをこのようにキャラクタとして内なる自分の世界の中で外部化することによって、抑制しようとしているのだと思われます。

また、これらの妄想の中で、私の中で、右腕が攻撃性、左腕が抑止という役割を得ていることが分かります。

 

三女、ですけど、これは冷静さを司っていて、常にこれらの4つから距離をおき、大抵の場合座っていて、本を読んでいます。これは、本を読んでいる時の安らぎ平和である様子と、知的で尊敬される存在である自分を象徴しています。いつも右後方に居ます。

昔は、左目の下に「Please kill me」と水性ペンで書いていて、涙を流すとそれが滲んで「Please kiss me」になっていたのですが、最近は殺されたりするのを諦めたようで、すっかり平和なものです。その分、ちょっと距離が遠くなりました。

というのは、三女は元々はもっと魔王エンジェルの三条ともみさんみたいな癖っ毛のないショートヘアの美人さんで、僕の中の女性の理想像という位置づけだったのです。それが、外部にともみさんが現れたことで、「著作権的にアウト!」ってのと、「この似姿は不可侵すぎる」っていう自粛によって、より自分の分身としての性格が大きくなり、結果、死ににくくなったのだと思います。

逆に言うと、僕の女性の理想像の中に死にたがりの女性というのがあるということです。というか、多分、女性と付き合ったら冗談で首を絞めたくなると思う。できなくて僕は泣くけど。うん、泣く所まで想像できる。というのは、「Please kill me」が涙によって滲んで「Please kiss me」になるというのは、そういう意味に他ならない。

僕が女性と距離を置いちゃうのは、そういう自分を気持ち悪いと思うからで、そういう自分を出せる相手なんていうのは、まぁまずまともな探し方では見つからないと思うからです。

 

っていうか、そういう人を見つけたいんならガチで自分そのものを切り売りするレベルの創作物を仕上げて、どどーんと打ち上げてそれを見てもらうしか無い。

 

話が逸れましたけど、そうやって三条ともみさんと差別化を図る過程で、僕に近い存在として眼鏡を掛けて癖っ毛になりました。この辺、下手に書くと佐野美心さんになってしまうのが難しいです。違います。全然違います。

 

んで、ここに描かれていないキャラクタたちの話。

僕の背後には、長女が居ます。っていうか、一人称が「私」の時っていうのは、背後にいる感じなんですけど、これは僕のアニマであるとともに母の像ですね。僕を保護し、生存を助けます。現実の母はセミロングですけど、これはストレートのロングヘアです。癖っ毛ないです。僕にとっても姉みたいな存在です。

この長女の歴史は古くて、体重が軽くてちっこくて「いいなー、体重軽くて、まつげも長いし女の子だったらよかったのにねー」って言われてた時に、それは男として辛い要素だったので、「もし女に生まれていたらもっと楽に暮らせてたのかな?」という願望に近い思いを抱いていたことに萌芽があると思います。

小学3年生くらいの時に夢の中で女性アイドルになる夢を見たことがあるし。

その頃、ちょっとイヤなあだ名を付けられていて学校でからかわれていたので、それから逃避しようとしたんですね、きっと。小学4年生になってその嫌がらせはなくなって、その願望は再度小さくなっていたんですけれど、中学1年で無視されることによって形を変えて再発した結果がこれかもしれない。

イマジナリーフレンドに近いのかもしれない。

あと、この姉的存在ってのは、妹のためでもあったりします。僕が姉だったら妹の相談にもっと乗ってやれたかな……というちょっとした願望も含まれています。

 

ここまで書くと解離性同一性障害、いわゆる多重人格みたいだけど、それは違っていて、記憶の断絶が無く、それぞれに固有の記憶が無い。

故に、自分の振る舞いを、その場の状況によって有利なように変える演技性人格障害の傾向が強い、と私は考えています。

 

あ、「私」という一人称についてですが、レベルによって2つの「私」があります。

僕の中で最も古い一人称は「良平」です。父母にそう呼ばれていたから。そして、そこに弟の誕生によって「お兄ちゃん」という一人称が加わります。というか、この弟の誕生の時に僕という自我が生まれたと思っています。

母に「弟ができて、お兄ちゃんになるのよ」と言われた時に、父母と一体の家族の状態から父母のもとに同室の存在である弟が現れることで僕という人格が父母から切り離されたんだと思います。だから、「お兄ちゃん」という一人称と「僕」という一人称の成立はほぼ同時期であったと思います。

弟が生まれた時には、僕は兄なんだ、という気持ちがあったように記憶しています。「わかる?」って聞かれたので。

 

……うーん、気がするだけかもしれないですけど。なにぶん、2歳の頃のことなので。

 

さて、そうして「良平」「お兄ちゃん」「僕」という一人称がしばらく続くわけですが、僕は父を見ていて父が外で仕事をしている時は「私」という一人称を使用していることに気が付きます。これが幼稚園入園後のことだったので、僕は家庭と幼稚園以外の場所は「いつもと違って丁寧にしゃべらないといけない場所」なので「私」を使わなければいけないのだと学習しました。

なので、小学校に入学した時に、「ここはお家じゃなくて幼稚園じゃない『外』なので、私を使わないといけない」と思い込み、自己紹介で「私の名前は~」と自己紹介をしたので、しばらく「女!女!」と馬鹿にされました。

先生に「私って言わなくていいのよ」って言われるまで使っていたのもありましたが。

 

というわけで、元来僕の中で「私」というのは必ずしも女性性とは結びつかない概念であり、パブリックな存在として確かな地位を持っています。それは中性的で、僕があるべき理想像でもあります。なぜなら、僕が父親を尊敬している時期に、父親から真似して使うようになった一人称だからです。

 

 

回りくどい書き方になりましたけど、僕の中にもう一つ、「私」を一人称として使う理想像があって、よって、一番調子が良い時には、その「私」になります。これは、今はほとんど調子が良い時は無いですけど、本当にお兄さんみたいな感じでしっかりしてます、割と。完璧では無いですけど、僕の機能をフル活用できます。

イメージ的には、三女の向こうに居ます。めっちゃ遠いです。

 

そんな感じです。

 

 

そして、「僕」ですけど、ここのところ、その調子のいい私とすごく遠い状態というか、その調子のいい私に近い状態の僕が死んでしまった感じで、つまり、現状の僕というのは三男に近いものだった感じがします。

それは、精神年齢的に中学生のまま停滞していると言う意味で、古い存在なのですが、三男相当の存在ということです。

次男相当の存在は、その無視されていた時に憎悪から生まれたものなので、後から生まれて、後から生まれた故に年上です。

 

さっき、記憶の断絶は無いって書きましたけど、物事の見え方はかなり違います。

説明は難しいですが、なんていうか、僕はのほほんとしています。私は、しっかり捉えようとします。

俺とかは破滅的です。なので物事をぶっちゃけます。悪い方に取ります。

長男的な僕は、謙虚ですけど、まぁ、僕みたいにあやふやではないです。

さっき、理想像って表現してた私は、父みたいな捉え方をします。

なんというか、記憶が頭の中に浮かんでいるんだけれども、それに対する近さがそれぞれに違っていて、アクセス速度が異なる、というような感じです。

それらの見方の違いを、時と場合によって切り替えて事態に対処するのが、「総体としての私」のあり方です。

 

なんか卑怯くさいですけどね。

まぁ、外からはそんな切り替えとか解んないんで。

つーか、僕としてもいつの間にか物事の見え方が切り替わってるんで、戸惑うんですけどw

 

実際こうやって書きながらちょこちょこ切り替わってるし。

アクセスの得手不得手があるので、微妙に言葉遣いが違ったりします。と自分では思ってます。

 

この辺の「切り替え」ってやつは逃避ですよねー。自分でも良くないとは思うんですけど……。

ていうか、嫌になります。ハイ。ごめんなさい。

 

そうだね。

 

 

これゴメンナサイモードであかんヤツや。

 

 

(20分後)

 

 

えっと……。

この辺の分裂具合に気がついたのは、高校生の頃で、なんというか、筆跡とかもろもろの「好み」が気分によって違うなー、と思い始めて、それで、『24人のビリー・ミリガン』を読んだり、当時はあんまり多くなかったその辺の情報を取扱った書籍を読んで、ああ、自分は別に多重人格ではないな、と思ったわけです。

今考えると、厨二病ですよね。

まぁ、なんと言いますか。

治ってねぇのかよ!なのですけど。

ただ、自分は分裂症のケがあるぞ、と警戒心を抱いて、監視するように設定をしたのもこの頃です。

この辺は、「ここ1年について/anual」に書いたルールの話ですね。

 

そういうわけでして、ここに一旦書きだして整理してみた次第です。ハイ。

ってか、今、「一旦」に「逝ったん」って変換候補が出てきて噴いたんですwww

 

……えー、なんかホント、どうやって治すんだろコレ。

 

つまりさ、この中のどれが一番私らしいんだろーね、ってコトね。

 

うむむ……。一番根っこにあるのは「私」なんだろうけど、あれって維持できないし、一番時間多い僕はヘタレだし、かといって果断というより蛮勇な俺では駄目だし、私系列はダメダメダメちゃんだし、つまり、ヘタレを中心にしてなんとかやってくしかないわけよ。現実の所。

 

なんか選ぶとかそんな選択の余地は無くて、そして、実際の所、こういう表面上の振る舞いの枝葉を取り立ててもしかたなくて、ほとんど中身は僕なんだよなー、っていう話。

 

……うん、でも、この考え方って今のこの瞬間の僕の考えでしか無いわけなんだよね。

朝起きたらまたちょっと違ってしまってる。

うごご……私とは一体……。

 

うえっへっへ。

 

はぁ……。どうしたもんかなー。

 

 

(※なんか多分、ここまで全部フィクション。つまり、ショートストーリィってヤツっすよ!)

 

(追記)

後半は単に疲れてダレてるだけじゃねーかwww

まぁ、以前も同じような記事を書いているから、比較するエントリも面白いかもね。

世は並べてこともなし/daily

正月から、というか1ヶ月前の去年の誕生日から何のために生きてるのかを考えているけれど特に無い。

得意なものは特に無いから、それを認めてもらおうという思いもない。

昔は小説とか書きたいと思っていたけど、どう考えても文章は上手くはないし、最近はどうにも「読んだ人が死にたくなるような話を書きたい」っていう思いばかりがあって、つまんないものしか書けない。

小説も1ページをなかなか覚えていられないから読み返したりしていて苛立つ。

何も考えないのが一番いいような気がする。

なんかこれも言い訳っぽいな。

楽だからな。

ゲームとかも最近なんのためにやってるのかよくわからなくなってきた。別に笑えないわけじゃない。

お正月も格付けチェックとか面白かったし。

なんか刹那的なだけ。

ちょっと前のエントリの続きのために絵を描こうかね。