昔話/ヒトトナリ

酒を飲んだ翌日というのはどうしようもなく沈むことが多い。

窓の外を見て、雨が降っているのではないかと思うくらいに暗い。

この二週間くらいずっと頭の中で昔のことを思い出しているから、今日はなおさら暗かった。

中学1年生の時、僕はいじめに参加していた。

朝、登校すると机が隠されていたり、教科書がゴミ箱に入っていたりするタイプだ。

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体罰の話

はてな記法忘れた(挨拶)

体罰の話。

日本人は「察する⇔察してもらう」という受動的なコミュニケーションが好きだと思います。
欧米人にも「察する」はあると思いますが、公の場では「主張する」ことを礼儀としているような気がします。

「察する」が標準化した世界というのは、つまり言葉で表現することが少なくても済みますので、言葉で表現するのが苦手でも結果さえ出れば高い職位が与えられることになるのだと思います。
指導的な職務が付随するのが高い職位であると現在は考えられていますので、言葉で表現するのが苦手な人でも指導的な職位へと至り、指導を求められます。
しかし、その下には未熟な者が付けられることになりますが、その指導者と同じくらい優秀な人材ならば察して付いて行くことができるでしょう。しかし、その指導者は、他の人よりも優れて察することができたから昇進することができたのであって、他の人は彼ほど察することができないでしょう。
よって、指導者は察することができない人には説明をしなければなりません。

中には説明をできる人もいるでしょう。しかし、そのような昇進をした人すべてが説明をできるわけではなく、言葉での表現不足を補うために何らかの方法で強制をしなければならなくなるのだと思います。

察するというのは、直感すると言い換えてもいいのかもしれません。

直感を構成するのは経験だと思います。優秀な人というのは、少ない体験の中からでも濃密な意味・経験を獲得する才能があり、その直感を形成するまでに至るのだと思います。
その才能に欠く人は、少ない体験ではなく大量の体験で補う方法がひとつあります。しかし、時間が掛かることですし、まだ意味を見出すことができていないことに時間を掛けるのは苦しいものですので、長続きしません。
そこで、長続きさせるためにより強い苦しさである体罰をぶつけて、比較的軽い苦しさである「理解なき努力」の選択を強要する、というのが体罰の図式と思います。

もうひとつ、才能を欠く人が取る方法として、少ない経験のままで、才能ある人が直感で実行している方法を理論的に模倣する、というものがあります。これはつまり、努力の意味を理論的に理解する「理解ある努力」であす。
たとえば、身体能力に優れた相手に勝つために倍の練習を積むとして、その意味を理解すれば苦しみは減るでしょう。
その意味を理解せずに行えば苦しいことの方が多いでしょう。

ところで、その意味を理解しようと理解しまいと、単純な努力のみでも素質に優れた者を上回ることは可能なケースは往々にしてあります。そうなった時に、「意味はわからなかったけど、体罰によって強制された努力の結果として良い成績を達成することができた」という状況は出現しえます。ここに体罰の肯定ははびこりやすいのだと思います。

しかし、スポーツというのは単純な身体能力のみで勝敗が決着する時代は終わり、分析と戦術理解のウェイトが大きくなり続けていると思います。
トレーニング理論も進歩していますし、チーム競技であればあるほど体力面で差をつけて勝利することは難しくなっているということです。
これまでの「指導力」は、「強制力」に大きなウェイトを占められていたのですが、それが本当に指導することが重要になってきているのだと思います。


ところで、何故死に至ったかについてですが、これは組織が閉鎖的だからだと思います。指導に納得がいかずに別の指導を受けに行くことが死ぬことよりも気軽にできるのならば、その選択肢を選べたでしょうけれど……。
日本の多くの組織が、この強制的な指導法をとるために閉鎖的な組織を形成し、「組織から逃げた者はこの強制的な指導に従わない者」=「この指導法では成長しない者」ということで評価を落とすという暗黙知を相互に形成してしまっていると思います。
それが「辞めないで我慢するのが常識」という強制力を持ち、人々を縛っているのだと思います。そして、それを制度が肯定していると思います。転校の手続きは面倒ですし、受け入れ体制は整っていません。社会人の労働関係法もそうだと思います。
法というのは常識を肯定するために設置され、議論は新たな常識を形成するために必要なのです。

この閉鎖性を脱するための議論を積み重ねることが必要だと思いますし、そのために時間をしっかりと確保することが重要です。
ところで議論とは、相互の意見を出し尽くした後で、どちらもが引いて容認できるポイントを共有することが決着だと思います。この文章もただの意見だと思います。

流動的な組織を維持するには、優れた経営理論が必要だと思います。
そして、優れた経営理論が存在しない状況ならば、固定的な組織を運用する方が社会全体では安定していたのであろうと思います。しかし時代は進んでいますし、国同士の競争の中でその優れた道を採らないことは致命的なのではないかと思います。


以上をまとめますと、組織が閉鎖的だから体罰が有効となり、体罰によって日本の中では成功例を収められるので日本の中では無くならないが、それは世界標準ではないのでこれから苦しい袋小路に追い詰められるんではないでしょうか?ということだと思います。


さて、AKB48さんの話になるのですが、外野から見ていて彼女たちは、コアなファンを狙ったサービスでカルト的な人気で盛り上がり、そこからキャッチーな部分で一般層を取り込んだのだという経緯の果てに、その組織の中で図抜けたアピールポイントがあるのだからそれを活かして独立しようという人というか独立させようという事務所の思惑がちらほら出てきて、そこに恋愛禁止というのを逆手に取ることもあったりなかったりするのだろうと思います。
実際のところはわかりません。
大事なのは、これが犯罪であるのか、ビジネスであるのか、です。
髪を切るというのは強要すれば傷害罪だったと思いますので。

多分、髪を切られた彼女が訴えれば、犯罪になると思います。しかし、訴えなければ警察は踏み込まないと思います。ビジネスかもしれないからです。
これは被害が「髪を切る」というものなので、個人によって受け取り方……精神的ダメージが大きく異るものであるため判断が簡単ではないということだと思います。
同様に、言葉の暴力についても同じ事が言えます。個々人によって受け取り方が異なるために、どの程度であればそれが犯罪なのかということを一概に決定することが難しいと思います。
そもそも、警察の人的資源も有限ですし、一から十まで警察が関与することは困難でしょう。
そういう実務的な限界の中に、いじめや体罰の問題もあると思います。

そうやって取り締まられないのであれば、我慢するということはやはり当人にとっての利得になりえるわけです。
ですので、再度繰り返すことになるのですが、これを避けるには流動性とその流動性へのセーフティネットが必要なのだろうと思います。
それは、困っている人に面談して相談にのってあげることであったり、解決法を教えてあげることであったり、距離をおいて理解する時間をつくったり、そういうたぐいのものであると思います。
本当に仕事が楽しく、そこで自尊感情が満たされていれば、恋愛にうつつを抜かすことは無いわけです、でも、恋愛というのは相互に自尊感情を満たす行為であるので簡単にあらゆるものに優先してしまいます。
それは仕方ないことだと思うんですよね。
でも、ある程度自分の才能と照らし合わせて相応の仕事に満足しなければいけない、ということも世の中にはあって、それが絶対的に恋愛に勝てないってことはかなり当たり前のことなんだと思います。
人間って自尊感情を満たすために存在しているのだろうと思うからです。
才能と照らし合わせて相応の仕事に満足するというのは、自身の中に想定する満たしたい自尊感情の器を小さくするという意味です。身の程を知るということも、満足のうち。それを納得させるのは、他の人が教え諭してくれる言葉であったりもするのです。
ほめるしかるというのは、そういう自尊感情の器の補正だと思うんですけどね。
体罰自尊感情の器を一旦壊すものだと思います。壊れて戻るものもあれば戻らないものもある。
だったら、僕はほめるしかるで補正するほうが、人が生き残る可能性は高いと思います。

その意味で、この件は教育の敗北であるとは思いますが、人間に常勝はありえないことですので、ありうべき事態への措置ということで生徒への出席停止はそれ自体が教育行為であるという意味で仕組みとして存在して良いと思うのです。ただし、出席停止した際に、それに相応しい大人の指導を受けられること、というのが条件です。例えば、校長室で授業を受けるとか、OB教員の指導を受けるとかね。停学とかが教育になってないのは、単なるお休みになってしまっている点だと思います。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/national/update/0202/TKY201302020238.html

峯岸さんも、その周囲の人達も、もっといろんな先輩のアドバイスとか受けられたら良かったんじゃないのかな、と思います。
なんか、ファンもろとも尖鋭化の一途をたどっているように見えます。

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おひさー/ヒトトナリ

なんか久しぶりやのー。

ここのところ悩みまくりです。

んで、「ここ1年について/anual」「中の人などいない!/ヒトトナリ」についてなんだけど、まぁ、だいたい嘘なので。

……ということにしたいんだな、俺の立場としては。

やっぱりこういう「精神的に脆い自分という設定」ってのは楽だからな―。

楽な方向に逃げたいってのは人間の性として仕方ないところはあるけど、そればっかりじゃやってけねーですし。

うん。

と、思ってみたところで実際に朝起きてテンション上がらないとどうしようもないんですけどね。

「目覚めよ!俺!」とか思っても、「いやだよう、ボクチン逃げたいよう」ってのには中々勝てないわけですね。

私とかそれ甘やかすしね。お前はかーちゃんか。

てわけで、俺が自律しないといけないよーな立場に思えるかもしれませんが、

基本的に俺はイラッと来たらあんまり考えないタチなので、やはり社交性はありません。

露骨に態度に出るしね。

「めんどくせー、死ね」とか平気で思うからね。

「この素っ首ぶった切りたいわ。ダルマやダルマ」とかね。

つーか皆殺しよホントw

おかーさんそんなこと許しませんよ。あと、おかーさんはエロも許しませんよ。

そういうことらしいんで、はい、まぁ、俺は眠ることにします。

眠気に弱いのも俺の特権ですわ。ははは。

ではでは。おやすーん(デレラジは明日聞くとしよう)

みょーん。またぞろおかしなこと書いてるです……。

はやく人間になりたーい。

……最近、Twitterとかでも不安定になりがちでご迷惑をおかけしてないか心配しまくりです。

うへぇええええ申し訳ねぇえええええ!

あうあう。すみませんすみませんすみません。

↑最近こいつはこいつでまた謝ってばっかりモードに入ってて機能してない。

そうやって謝るとそれはそれで心配かけますから、やめておきましょうね。

そういう自覚はあるんですけど、どうにも気持ちが大きくなっている時に自重ができなくて困ります……。

はぁ……。普通ってなんなんでしょうか……?

中の人などいない!/ヒトトナリ

僕の頭の中に住んでいるキャラクターがいます。

それらは人格ではなくて、自動的なルーティンです。

名前はありません。

 

たとえば、以下の画像です。

f:id:yoshi1207:20170122110902p:plain

 

彼女は、僕の調子が悪い時に右後方から現れて、僕の心の中の右腕を掴みあげて出刃包丁で切り落として犀の目に切り刻み、その肉片を口から火を噴いてこんがり焼いて食べます。

それは、時計台のからくり人形のようなもので、機械的にそれを行うだけです。

僕は切り落とされた右腕を幻視し、血の滴る切断面から新しい腕が生えてくるのを見守ります。

彼女は、肉を食べ終わったら消えます。

どちらかというと、彼女は次女です。

 

話を続けます。

次の画像です。

f:id:yoshi1207:20170122110927p:plain

右側の彼女が目立ちますけど、彼女は言うなれば三女です。このブログの看板娘でもあります。

一番左側が僕です。というより、一番左側が僕である時間が一番長いです。

その隣で、次女相当の彼女が肉を食べています。

滴る血が延びて、左腕が無い男につながっていますが、彼はおおよそ次男に近い何かです。

その次男に近い何かが掴んでいるのは、「お仕事処理マッシーン」となった僕です。

僕は、疲れてくると何も考えずに仕事を処理するマシーンになります。

 

でも、仮に次男と呼ぶことにする俺はお仕事マッシーンな自分を大嫌いなので、頭をぐちゃぐちゃに殴り潰して殺します。空想の中で。

何度も何度も頭を叩き潰します。頬骨が陥没して、前歯が折れて、額が割れて、脳が潰れて、髄液が飛び出します。その時、左手の血で出来た鎖を、長男相応であるところの僕と長女相応であるところの私が引っ張って阻止しようとします。だいたい、「お仕事処理するマッシーン」になるくらい疲れている時は阻止できません。本当に疲れている時は阻止しようという気力すらありません。

だいたい右手が折れるくらい叩き潰すまで妄想したら、すっきりするので次男相当のヤツは消えます。

つまり、次男次女みたいな連中というのは私の中の攻撃性というヤツで、それをこのようにキャラクタとして内なる自分の世界の中で外部化することによって、抑制しようとしているのだと思われます。

また、これらの妄想の中で、私の中で、右腕が攻撃性、左腕が抑止という役割を得ていることが分かります。

 

三女、ですけど、これは冷静さを司っていて、常にこれらの4つから距離をおき、大抵の場合座っていて、本を読んでいます。これは、本を読んでいる時の安らぎ平和である様子と、知的で尊敬される存在である自分を象徴しています。いつも右後方に居ます。

昔は、左目の下に「Please kill me」と水性ペンで書いていて、涙を流すとそれが滲んで「Please kiss me」になっていたのですが、最近は殺されたりするのを諦めたようで、すっかり平和なものです。その分、ちょっと距離が遠くなりました。

というのは、三女は元々はもっと魔王エンジェルの三条ともみさんみたいな癖っ毛のないショートヘアの美人さんで、僕の中の女性の理想像という位置づけだったのです。それが、外部にともみさんが現れたことで、「著作権的にアウト!」ってのと、「この似姿は不可侵すぎる」っていう自粛によって、より自分の分身としての性格が大きくなり、結果、死ににくくなったのだと思います。

逆に言うと、僕の女性の理想像の中に死にたがりの女性というのがあるということです。というか、多分、女性と付き合ったら冗談で首を絞めたくなると思う。できなくて僕は泣くけど。うん、泣く所まで想像できる。というのは、「Please kill me」が涙によって滲んで「Please kiss me」になるというのは、そういう意味に他ならない。

僕が女性と距離を置いちゃうのは、そういう自分を気持ち悪いと思うからで、そういう自分を出せる相手なんていうのは、まぁまずまともな探し方では見つからないと思うからです。

 

っていうか、そういう人を見つけたいんならガチで自分そのものを切り売りするレベルの創作物を仕上げて、どどーんと打ち上げてそれを見てもらうしか無い。

 

話が逸れましたけど、そうやって三条ともみさんと差別化を図る過程で、僕に近い存在として眼鏡を掛けて癖っ毛になりました。この辺、下手に書くと佐野美心さんになってしまうのが難しいです。違います。全然違います。

 

んで、ここに描かれていないキャラクタたちの話。

僕の背後には、長女が居ます。っていうか、一人称が「私」の時っていうのは、背後にいる感じなんですけど、これは僕のアニマであるとともに母の像ですね。僕を保護し、生存を助けます。現実の母はセミロングですけど、これはストレートのロングヘアです。癖っ毛ないです。僕にとっても姉みたいな存在です。

この長女の歴史は古くて、体重が軽くてちっこくて「いいなー、体重軽くて、まつげも長いし女の子だったらよかったのにねー」って言われてた時に、それは男として辛い要素だったので、「もし女に生まれていたらもっと楽に暮らせてたのかな?」という願望に近い思いを抱いていたことに萌芽があると思います。

小学3年生くらいの時に夢の中で女性アイドルになる夢を見たことがあるし。

その頃、ちょっとイヤなあだ名を付けられていて学校でからかわれていたので、それから逃避しようとしたんですね、きっと。小学4年生になってその嫌がらせはなくなって、その願望は再度小さくなっていたんですけれど、中学1年で無視されることによって形を変えて再発した結果がこれかもしれない。

イマジナリーフレンドに近いのかもしれない。

あと、この姉的存在ってのは、妹のためでもあったりします。僕が姉だったら妹の相談にもっと乗ってやれたかな……というちょっとした願望も含まれています。

 

ここまで書くと解離性同一性障害、いわゆる多重人格みたいだけど、それは違っていて、記憶の断絶が無く、それぞれに固有の記憶が無い。

故に、自分の振る舞いを、その場の状況によって有利なように変える演技性人格障害の傾向が強い、と私は考えています。

 

あ、「私」という一人称についてですが、レベルによって2つの「私」があります。

僕の中で最も古い一人称は「良平」です。父母にそう呼ばれていたから。そして、そこに弟の誕生によって「お兄ちゃん」という一人称が加わります。というか、この弟の誕生の時に僕という自我が生まれたと思っています。

母に「弟ができて、お兄ちゃんになるのよ」と言われた時に、父母と一体の家族の状態から父母のもとに同室の存在である弟が現れることで僕という人格が父母から切り離されたんだと思います。だから、「お兄ちゃん」という一人称と「僕」という一人称の成立はほぼ同時期であったと思います。

弟が生まれた時には、僕は兄なんだ、という気持ちがあったように記憶しています。「わかる?」って聞かれたので。

 

……うーん、気がするだけかもしれないですけど。なにぶん、2歳の頃のことなので。

 

さて、そうして「良平」「お兄ちゃん」「僕」という一人称がしばらく続くわけですが、僕は父を見ていて父が外で仕事をしている時は「私」という一人称を使用していることに気が付きます。これが幼稚園入園後のことだったので、僕は家庭と幼稚園以外の場所は「いつもと違って丁寧にしゃべらないといけない場所」なので「私」を使わなければいけないのだと学習しました。

なので、小学校に入学した時に、「ここはお家じゃなくて幼稚園じゃない『外』なので、私を使わないといけない」と思い込み、自己紹介で「私の名前は~」と自己紹介をしたので、しばらく「女!女!」と馬鹿にされました。

先生に「私って言わなくていいのよ」って言われるまで使っていたのもありましたが。

 

というわけで、元来僕の中で「私」というのは必ずしも女性性とは結びつかない概念であり、パブリックな存在として確かな地位を持っています。それは中性的で、僕があるべき理想像でもあります。なぜなら、僕が父親を尊敬している時期に、父親から真似して使うようになった一人称だからです。

 

 

回りくどい書き方になりましたけど、僕の中にもう一つ、「私」を一人称として使う理想像があって、よって、一番調子が良い時には、その「私」になります。これは、今はほとんど調子が良い時は無いですけど、本当にお兄さんみたいな感じでしっかりしてます、割と。完璧では無いですけど、僕の機能をフル活用できます。

イメージ的には、三女の向こうに居ます。めっちゃ遠いです。

 

そんな感じです。

 

 

そして、「僕」ですけど、ここのところ、その調子のいい私とすごく遠い状態というか、その調子のいい私に近い状態の僕が死んでしまった感じで、つまり、現状の僕というのは三男に近いものだった感じがします。

それは、精神年齢的に中学生のまま停滞していると言う意味で、古い存在なのですが、三男相当の存在ということです。

次男相当の存在は、その無視されていた時に憎悪から生まれたものなので、後から生まれて、後から生まれた故に年上です。

 

さっき、記憶の断絶は無いって書きましたけど、物事の見え方はかなり違います。

説明は難しいですが、なんていうか、僕はのほほんとしています。私は、しっかり捉えようとします。

俺とかは破滅的です。なので物事をぶっちゃけます。悪い方に取ります。

長男的な僕は、謙虚ですけど、まぁ、僕みたいにあやふやではないです。

さっき、理想像って表現してた私は、父みたいな捉え方をします。

なんというか、記憶が頭の中に浮かんでいるんだけれども、それに対する近さがそれぞれに違っていて、アクセス速度が異なる、というような感じです。

それらの見方の違いを、時と場合によって切り替えて事態に対処するのが、「総体としての私」のあり方です。

 

なんか卑怯くさいですけどね。

まぁ、外からはそんな切り替えとか解んないんで。

つーか、僕としてもいつの間にか物事の見え方が切り替わってるんで、戸惑うんですけどw

 

実際こうやって書きながらちょこちょこ切り替わってるし。

アクセスの得手不得手があるので、微妙に言葉遣いが違ったりします。と自分では思ってます。

 

この辺の「切り替え」ってやつは逃避ですよねー。自分でも良くないとは思うんですけど……。

ていうか、嫌になります。ハイ。ごめんなさい。

 

そうだね。

 

 

これゴメンナサイモードであかんヤツや。

 

 

(20分後)

 

 

えっと……。

この辺の分裂具合に気がついたのは、高校生の頃で、なんというか、筆跡とかもろもろの「好み」が気分によって違うなー、と思い始めて、それで、『24人のビリー・ミリガン』を読んだり、当時はあんまり多くなかったその辺の情報を取扱った書籍を読んで、ああ、自分は別に多重人格ではないな、と思ったわけです。

今考えると、厨二病ですよね。

まぁ、なんと言いますか。

治ってねぇのかよ!なのですけど。

ただ、自分は分裂症のケがあるぞ、と警戒心を抱いて、監視するように設定をしたのもこの頃です。

この辺は、「ここ1年について/anual」に書いたルールの話ですね。

 

そういうわけでして、ここに一旦書きだして整理してみた次第です。ハイ。

ってか、今、「一旦」に「逝ったん」って変換候補が出てきて噴いたんですwww

 

……えー、なんかホント、どうやって治すんだろコレ。

 

つまりさ、この中のどれが一番私らしいんだろーね、ってコトね。

 

うむむ……。一番根っこにあるのは「私」なんだろうけど、あれって維持できないし、一番時間多い僕はヘタレだし、かといって果断というより蛮勇な俺では駄目だし、私系列はダメダメダメちゃんだし、つまり、ヘタレを中心にしてなんとかやってくしかないわけよ。現実の所。

 

なんか選ぶとかそんな選択の余地は無くて、そして、実際の所、こういう表面上の振る舞いの枝葉を取り立ててもしかたなくて、ほとんど中身は僕なんだよなー、っていう話。

 

……うん、でも、この考え方って今のこの瞬間の僕の考えでしか無いわけなんだよね。

朝起きたらまたちょっと違ってしまってる。

うごご……私とは一体……。

 

うえっへっへ。

 

はぁ……。どうしたもんかなー。

 

 

(※なんか多分、ここまで全部フィクション。つまり、ショートストーリィってヤツっすよ!)

 

(追記)

後半は単に疲れてダレてるだけじゃねーかwww

まぁ、以前も同じような記事を書いているから、比較するエントリも面白いかもね。

世は並べてこともなし/daily

正月から、というか1ヶ月前の去年の誕生日から何のために生きてるのかを考えているけれど特に無い。

得意なものは特に無いから、それを認めてもらおうという思いもない。

昔は小説とか書きたいと思っていたけど、どう考えても文章は上手くはないし、最近はどうにも「読んだ人が死にたくなるような話を書きたい」っていう思いばかりがあって、つまんないものしか書けない。

小説も1ページをなかなか覚えていられないから読み返したりしていて苛立つ。

何も考えないのが一番いいような気がする。

なんかこれも言い訳っぽいな。

楽だからな。

ゲームとかも最近なんのためにやってるのかよくわからなくなってきた。別に笑えないわけじゃない。

お正月も格付けチェックとか面白かったし。

なんか刹那的なだけ。

ちょっと前のエントリの続きのために絵を描こうかね。

ここ1年について/anual

なんかひどい1年を昨年は過ごした。

元気に生きているかどうかは知らない。

ひとまず通院してた時期よりはまだマシなんじゃねーの?

でも、通院してた時の病名思い出せないしね。

なんか曖昧。

いつ死んでもいいような状態ではあるけれど、

親も兄弟も悲しむから死ねないよね、って感じはある。

なんか諦めの境地ではある。

しかし、矜持が死んでしまったわけでもないらしく、時々思い出したように志すことがある。

が、長続きはせぬ。

年始の社内会議で、「自分の方向性に悩んでいる」とか発言。

祖父の他界。

モバマスにハマる。

二次創作書くも、最後の締め括りに自分で納得行かず煩悶の嵐。

ホントにありとあらゆるものがどうでもよくなる。

「読んだ人が死にたくなるような作品」を書きたくなる。

TARI TARI」を見て高校生時代を思い出す。

ひとまずペンタブを絵を描いて気を紛らわす。

二次創作界隈のゴタゴタでまた悩む。

などのことがいろいろありました。

よく解らない状態。

どこで間違ったのかも解らないから後悔もない。

ずっと全てが間違いだったという感覚しか無い。

というよりも、その間違いだったという肯定というか諦念でもって全てを曖昧にしてしまっている。

全てを後悔して自分を殺すには私はてきとー過ぎるんだ。

改めて書いておかなければならないけれど、私の精神は、

①精神は肉体に宿を借りている存在である。

②精神は肉体を両親からの預かり物として十全な状態での保全に努め、これに物理的損害を与えてはならない。

③精神が他者に危害を加えうる場合に、肉体は自らの死を以って精神を葬ること。

というルールの下に運用されていることになっている。

これは厨二病的な自分ルールであって、③が実際に適用される可能性は無いだろう。

一方で、②は実際に重要なルールであり、食事の半分くらいはこのルールに拠っているし、刃物の取り扱いや高所での作業においても状況によってはそれらから精神を遠ざける運用がなされている。

とにかく、最近のトレンドは取りも直さず「みんな死んだら楽になるのに」である。

なんかしょっちゅうこれが頭の中に浮かぶ気がする。

私の破滅主義的思考の中では、世界が滅んでみんな死んでしまって、そしたら私は「許されて」「死ぬことができる」という考え方が主流である。

これは、中学生時代からの「親が死んでしまったら、可哀想な僕は死んでしまえるだろう」という思考の拡張にすぎない。

どこまでも私は中学時代の亡霊の域を出ない。

テキストを介さない他者とのコミュニケーションにおける不能感も中学生時代以来のものだ。

いや、萌芽はもっと前に幼稚園時代からあったが、それが日常において精神的な負荷として認識されるようになったのが中学生時代から、ということなのだが、まぁ、とにかくその時の苦手意識も相俟ってコミュニケーションに不便を感じる。

具体的には、相手の話をリアルタイムで理解できない、という不都合である。

そしてそれで苦手意識があるためにメールなどのコミュニケーションにおいても過剰に慎重になってしまっているような気がする。

今はとにかくスピードを落として一つ一つの仕事を片付けることを重視している。

会社は辞めたいのだが、辞める能力がない。

社長は「そんなことでは社会で通用しない!」と僕に限らない社員に対して喝を入れる。

だが、それは「無能ゆえにこの会社以外には行けない」という暗示に外ならないのだと、内なる私は言う。

これによって無能は社内に留まり、「社会に通用する」人は社会へと出ていってしまう。

こうして無能な人が社内に増えていく。そういう仕組に今はなっているし、社長のような言はネット上のあちこちで見るから、そうやって無能な人は増えていっているのだろう。

なんだかよく解らない安心感が僕にはある。

私は、なんとかなるとは思うのだけれど、確実な保証はない。

現時点で毎月手取りで17万円もらえている。それは満足すべきことなのかもしれない。

他の人がどれだけ貰っているのかは解らないが。

私は、とにかくお金を使わないので、貯金は溜まっていっているからなんとも言えない。

苦しい生活はしていない。

しかし、先日届いた「ねんきん定期便」を見ると、僕は20年間で500万円しか貰えないということになっている。

これは、今までの実績からの数字であって、確定した数値ではないと私は告げる。

だが、直感的にそれを掴むにはこのハガキは直接的過ぎる。

これを見ると年金を収めたくなくなる気持ちが湧いてくる。

それは非合理的な感情だと思う。

僕は。昔からよくホームレスになる夢を見る。

ズタボロの服を着て、寝床を探して街をさまよう。

内ポケットには100万円が入った封筒があって、僕はそれを大事に大事に使いながらホームレス生活をしている。

そして、ある日ホームレス狩りに遭って、ボコボコに殴り蹴られて死ぬのである。

その懐の100万円は狩りに来た者たちは気付かず、私はその100万円を使い切らないまま死ぬ。

全く無意味な死である。

そんな死を迎えるのだという認識が僕の中にある。

そういう意識が、僕が変わるのを阻害しているという評価もある。自分の中で。

でも、それを捨て切れない。

私は一体どれなのだろう?と疑問に思う。

最も私らしい行動とはなんだろう?

最も始原的な私は、他人の話を理解することができないから、高慢である。知識をひけらかすのが好きで、憎らしいやつだ。だが、優しくもある。

その上に生まれたのは、徹底的に無視され、時々攻撃されることによって生まれた憎悪である。私の一部は、憎悪によって生存できた。いや、それは控えめな表現であって誤っている。

私は、「こいつらはいつか死ぬ。でも僕は生きる」そういう意思によって私は生きながらえることができた。

死なないことそのものが復讐であり、頭の中でそいつらを殺し続けることが復讐であった。

故に、私はその拡張として、生き続けつつ、憎悪を抱いたものを瞬間的に脳裏において殺害する習慣がついた。

私は、その時期が過ぎた後、その習慣を嫌悪した。

が、もうどうしようもなかった。

修正できないその内面を、そのまま抱えて私は私全体を「好きだ」と思い込むことにした。

その暗示によって、私は危うい均衡を維持していると言える。

その暗示そのものが「私」であって、最も私の中で新しい部分である。

憎悪は「俺」の担当であり、それ以外の優しさが「僕」である場合が多い。

だが、これらは安定しているわけではない。

多重人格とかそういうものではなく、「連想の近さ」の問題でしか無い。

例えば、「いちご」という語に対して、「赤い」「甘い」「おいしい」というような連想が成り立つように、

瞬間的に生まれた憎悪について、「俺」という主語を持ち出すように関連付けられているというだけのことである。

多分。

最近忘れっぽいのはストレスによる抑圧状態で脳が完全に働いていないからだと思う。

ここまで書いてもホントに自信がない。

私って何なのだろうか?

価値?

無いなー。

いや、あるなー。

この「あるなー」というのが自己保存のための反射的な応答であって、全くの無根拠である、という糾弾を私は行うことができる。

しかし、これを訴追の相手として選ぶには、私とこの保全機能との距離は近すぎる。

とにかくやりたくない。

何もやりたくない。

という意識が頭にポコポコ浮かんでくる。

もう嫌なのである。

何が?

義務感で持って何かを為すことが。

では、何をやりたいのか?

はははwwwwwwww小説でも書くのかwwwwバカなのにwwwwwおかしいw笑えるw

そう、最早私はバカなのだ。

変哲から哲を除いて変なのだ。

狂っている。

記憶できない。

欠けてしまっている。

嘘嘘嘘嘘。

そうやって逃げようとしているだけ。

知らない。

どうしてなんだろう?

勉強しないからだ。

勉強?小説の1ページも覚えておけなくて、頻繁に読み返しているのに?できっこないよ。

そう、終わってる。

ああ、もう、どうしたらいいの?

なんか私はおかしいの。

そう思い込んでるだけ。

そうなのかな?

でも、解らない。

目が覚めている時と、目が覚めていない時と、それがある感じがする。

なんだかとても生きている心地がしない。

誰なんだろう?否、私は誰になろうとしているんだろう?

僕は?僕はどこなんだろう?どうあるべきなんだろう?

解らない。

解らない。

今はまだ、生きているフリができているからマシなのかも知れない。

そんな気もする。

どうかな?これもフリのような気がする。

私って本当はまともなんじゃないかしら?

どうかな……。

なんか疲れた。

調子が悪い時って、こういうことの繰り返し。

1ヶ月周期で起きている期間と凹んでいる期間を繰り返している。

これって双極性障害っぽいんだけど、私はこれを自らの立場のコントロールに利用しようとして自ら増幅したりしているみたい。ネットで調べた感じだと演技性パーソナリティ障害っぽいと思ってる。

でも、そういう自己診断って危険だし、それによって自分の行動が方向づけられてしまう危険性もある。

確定した診断名はSAD/社会不安障害なんであって、ひとまず私は私をそれによって語るよりしようがない。

障害っていうか、まぁ、人間の性格の多様性のひとつ、として捉えられるようになるべきだと僕は考えるわけだけれども、現状の日本社会、特に大企業ではない中小企業においては、そういう社会不適合者に対するケアなんてものは望むべくもない。

一方で、そういう社会不適合者はむしろそういう中小企業に流れ着いてしまう、というのもまた日本の現実で、だから僕は中小企業の人材管理についてもっと労基署などがフォローする体制が必要だと考えているんだけれど、まぁ、僕には間に合わないよね。

ぐだぐだ愚痴を書き連ねてみたけど、とにかく今の現状を打破する方法を私は知らない。

だから愚かなことを書き連ねるしかないのである。

調べろって?

うん、まぁ、それが解らないからね。

解らない。解らないんだ。

違うな。

何かを調べて「解った」と感じるための自信がないんだ。

自分を信じてない。それに尽きる。

わけわからんな。

ひとまず生きていくしか選択肢はない。

この「一択しか無い」というのが、「私は何なのか?」という問いの発生源である。

選ぶものが無いのなら、私でなくてもいいのではないか。

選択肢があり、採らなかった選択肢について後悔がまとわりつく、それが「選択する主体としての私」の存在証明なのかもしれない。

自分を失う日々というのは、選択肢を失う日々なのだ。

ううん。

忘れろ、ここに書いたすべてを。

(追記)

せっかくだし、気の向く限りいくつかのエントリに分けて自分の精神史を整理しようと思う。

毎朝、頭の中で僕の右腕を切り落としてサイコロステーキにして食べる女性の話とか、そんなの。

自認

いかに賢しげに理由を付けても、私が責任を放り出した無能なのに変わりはない。

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